おわりに

 バーチャル・リアリティは、人間の3次元視のしくみを利用した技術で、産業、教育、医療、福祉、娯楽分野で普及しようとしている。視覚心理学的にこの技術を考察すると、(1)バーチャル・リアリティ技術で再現された人工現実空間の視覚特性と自然空間のそれとの間の類似度が明確ではないこと、(2)2次元画像から3次元世界を構築するので、輻輳作用と眼球調節作用との間に不一致が生じること、(3)長時間にわたって持続観察したときの眼精疲労などの程度が不確定なこと、(4)現実と人工現実との混同からくる心理発達上の問題が不明であることなどの問題が解決されていない。人工現実空間での眼球調節と輻輳作用の不一致を検討した研究(Miyao, et al.(7))、HMDを使用したときの疲労眼筋機能を分析した研究(Hasebe, et al(14))、あるいは人工現実空間で生起すると考えられる観察者の自己運動をしらべた研究(Palmisano(33))などは、バーチャル・リアリティで構築された人工現実空間での視覚心理学的問題を扱ったもので注目される。
 心理学における3次元視研究の関心は、ランダム・ドット・ステレオグラムにおける両眼視差検出の対応問題から、奥行手がかりを用いての形状復元の問題、および奥行手がかりの統合問題に移っている。奥行手がかりは、基本的には、対象の3次元形状を知覚させるために働くが、視覚システムは複数の奥行手がかりを統合して処理し、ひとつの矛盾しない対象を再現する。対象の形状の再現には、対象の形状、大きさ、奥行などが正確に復元されて知覚されねばならない。これまで、形状復元については、3種類の主要な奥行手がかりが取り上げられ、両眼視差からの形状復元、運動視差からの形状復元、そしてステレオキネティックからの形状復元というテーマのもとで検討されてきた。今回、報告したように、この3種類の形状復元を、限定した条件ではあるが、比較した研究(Durgin, eet al.(9))は、3次元視の処理過程を統合的に考察する上で示唆的である。
 この問題は、結局は、複数の奥行手がかりが、どのように関連し、統合されるかの問題でもある。これについてはモジュラー理論が有力であり、両眼視差、運動視差、運動、陰影、テクスチュアなどからの形状復元についてこれまでしらべられてきた。この理論では、形状復元が2つの要因からの統合として行われる場合、たとえば両眼視差とテクスチュア、両眼視差と陰影、両眼視差と運動からの形状復元の場合、理論的には、それぞれの要因からの形状復元は、それぞれの要因を処理するプロセスで独立して処理され、その結果の加算的総和で最終的な形状復元が決定される。これに対して、もし、2つの要因からの形状復元が、それぞれ単独での形状復元より正確に行われ、両要因の処理過程で何らかの相互作用があるとすれば、それはひとつの要因での形状復元が他の要因からの形状復元を促進する。奥行手がかりの統合問題には、このように、手がかりがそれぞれモジュラー処理されているのか、それらのモジュール間での相互作用はあるのか、さらに統合は加算的総和、重み付け総和、あるいはそのほかの形式の統合が行われているのかなどの問題を内包する。
 今回、特筆される報告(Mikuras(27))は、中年(45歳)になるまで奥行や立体感を欠く2次元的知覚能力しかもてなかった中年の男性が、ある日、突然、ぼんやりと遠くの山々を眺めていたときに3次元視能力を回復したとの事例である。2次元的にしか世界を知覚できないという状態を想像しにくいが、さらに3次元知覚が、突然、生起したのも理解がしにくい。多分、変化が生じたのは、視知覚の処理過程ではなく、認知の過程と推定されるが、それにしても不思議な事例といえよう。
 心理学における3次元視研究は、バーチャル・リアリティ関連の研究と奥行手がかりの統合の問題を中心にこれから展開されると考えられる。