花はさかりに

 今年の桜も満開の頃を迎えた。生まれたときから数えると72回目の桜の季節となる。こんなにも桜の季節を経験すると飽きると思われるが、いっこうにそんなことはなく、歳を経るほどに桜の季節が愛おしくなる。咲いたものは散るのが定めとはいえ、花の散りゆく様を見るのは一段と惜別の念が起きる。
 徒然草の第137段にも、「花はさかりに、月はくまなきものをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。・・・・」と記し、すべての事象には初めと終わりがあることを味わい深く語る。
 これより古く、12世紀に存命した西行法師は、桜を愛しそして惜しんだ歌人として広く知られる。もともとは衛府に仕える北面の武士であったが、あるときに一念発起して出家し、生涯を和歌に捧げた。

「風さそふ花のゆくへは知らねども惜しむ心は身にとまりけり」(山家集)

この和歌では、風が花を散らし運んでゆくが、その行く末はわからない。でも散りゆく花を惜しむ心はどこへも行かずに私の胸に留まっている、と詠む。西行の桜花への憧憬は強く、

「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの 望月の頃」

と詠み、その通りに桜の咲き誇る満月の日に入寂したと伝わる。

 西行のようにそこまで桜花に入れあげないが、桜はものを思わせる力をもっていうようだ。

 とはいうものの、老いの繰り言はこのくらいにして、桜の開花の季節は日本では年度替わりとなる。入学、卒業、進学、就職と人生の節目となる行事が続く。これらの関わる者達は、希望に胸が膨らむ。かつての自分を振り返ってみても、桜は懐旧の存在ではなく、希望を指し示す存在だった。公園に集う幼児や少年、少女は、桜き誇る桜に未来への思いを託し、愛でている。

「サクラサク電文道を開けたり」

「生き生きと子らの輝くさくらかな」 (敬鬼) 




                 

                                   2016327