啓蟄

 二十四節句では雨水と春分の間に啓蟄をおく。これは、冬ごもりの虫が這い出る陽気になるといった気候をいうのだそうだ。ちょうど、この間に雛祭りの行事もあり、日の入りも6時近くまで伸びてまさに日脚伸ぶを散歩しながら実感する。

 「啓蟄の明るさにまづたぢろぎぬ」稲畑汀子。

冬の明るさから日脚が伸びて一段と明るさが増し春が来たことを吟詠している。私は夕方340分ほど近所や市民公園を散歩することをほぼ日課としているので、冬に較べて夕方の陽射しに強さがあるのを感じながら歩く。

 「啓蟄やどこまで散歩伸ばそうか」 敬鬼

これは、そんな日脚の伸びた心地よい夕方の散歩をもう少し延ばしたくなったことを吟じたものだ。周りにはそんな顔をした散歩人が何人も、何組も会釈しながら行き交っている。同じ時間帯に散歩するので、どこの誰かは知らないが顔見知りにはなる。なかには犬を連れている人もいるので、犬とその人とが連結して覚えていて、犬を連れていないとついついどうしたのですかと聞いてみたくなる。そんなとき、老犬だったのでつい数週間前に老衰で死にましたと聞かされると、身につまされる。かくいうわが夫婦も愛犬のクウタローを亡くしたばかりだからだ。18年有余も家族の一員として生活してきたので哀惜この上ない。

 「寒の朝老犬逝きぬ泪して」

 啓蟄という節句を知ったのは、いまから三十年ほど前のことだ。その日はよく晴れ春の暖かさを感じる日だった。そんな春の一日、昼に大学の構内を歩いていると、ある先輩がサンダル足でちょこまかと歩いてきて、「今日は啓蟄だそうだよ。土の中の虫も這い出す陽気という意味だ。こんな日は太陽の恵みを身体一杯浴びて歩いていたいものだ」とすれ違い様に声をかけたことがあった。遠い日の思い出でだが、その先輩は夭逝したので、ことのほか記憶に残っていて、この候になるときまって思い出すから不思議なことだ。そんな思いを吟じると、

「啓蟄や昔の人も這い出しぬ」 敬鬼

                           2016312日