日本の夏、八月は行事が目白押しだ。原爆記念日、終戦記念日、お盆行事と墓参り、そして夏の高校野球だ。今年は戦争終結から70年ということで、テレビでも特集が多いらしい。男あるじも女あるじも、それぞれ終戦1年前と終戦の年の生まれなので、感慨がひとしおのようだ。まさに戦後の歩みと共に人生を送ってきたからだろう。かくいう吾輩は、ちょうどバブルがはじけた年、1991年に生を受けているので、バブル崩壊世代とその後の低成長期に犬生を歩んだことになる。といっても、吾輩はあてがい扶持なので、経済が良くても悪くてもまったく変わらない犬生だ。
 こんなことを漏れてくるテレビの番組を聴きながらエアコンの効いた部屋でうつらうつらしていたら、男あるじが2階の書斎からやってきて、チャンネルを切り替えた。夏の甲子園の中継だった。高校野球も100周年の節目の大会だそうで、盛り上がっているらしい。男あるじは、野球中継を見ながら、「第一回大会は大正4年というから1915年のことだというぞ。いまは2015年だからちょうど100年前になる。このときの代表校は10校だけだった。優勝校は京都第二中学校、当時の学生では中学校が現在の高校に当たる。現在は出場校は各県の代表1校と北海道と東京都が各2校で49校となっている。優勝するまでには、最大6回を勝ち抜かなければならないから大変なことだ。」としゃべり出した。
 今年は梅雨明けから猛暑日が続き、連日35度前後の気温となり、暑さにことのほか弱い吾輩は、エアコンの風の下で体温を下げる毎日だ。それでも、テレビの中継をみやると、この炎天下で投げ、打ち、走っているので、若い力というものをうらやむばかりだ。吾輩も十代の頃は炎天下で走り回っても平気だったことをなつかしく思い出した。男あるじは、
「今年は100周年だが、大会は97回だ。つまり、戦時中で3回分開催できなかったんだな。スポーツ大会が開催できないなんて時代はごめんこうむりたいものだ。終戦後は未開催だった年はない。あの神戸・淡路大震災のとき、あるいは東日本大震災の時も開催された。とくに、神戸・淡路大震災震災が起きたのは、1995117日で、春の選抜まで2ヶ月あまりしか残されていなかった。甲子園球場がある西宮市、近隣の神戸市、芦屋市が大打撃を受け、犠牲者は6400人を超えた。被災者の心情を察するととても野球どころではなかったはずだな。でも、主催者は開催に踏み切った。野球が震災に立ち向かう力を与えると信じたからだ」と話続けた。
 吾輩は、震災からのその後の目覚ましい復興を知っているので、開催に対して賛否両論ある中で開催されたことは良かったことだと思う。これも、高校野球に対する世論の支持があるからだろう。男あるじも、
「まあ、そういうことだな。高校野球は高校生の純粋な野球魂に支えられているので、国民はそれを支持している。だから、幾多の名場面を生んできた。われわれも、この高校生のプレーから人生にチャレンジしていく姿勢を得ているのだよ。どんなに難しくても努力すれば成功する。たとえ片田舎のチームでもあきらめないで、またはじめから逃げ腰になるのではなくその困難にぶつかっていく。この姿勢が共感を呼び、またプレーする方にも、それを見る方にも生きる力となることを知っているからだ」とテレビ観戦しながら話し終えた。
 どうも、高校野球を観戦したいといういい訳気味に聞こえなくもないが、でもそれが正しいのだろうと吾輩は床に寝そべりながら、うとうとしだした。

「白球や魂ゆさぶる甲子園」 敬鬼

- 100周年の甲子園大会

徒然随想