今年の梅雨は長雨が続くので、気分もだんだんと下降していく感じだ。というのも、目覚めると、シトシトぴちゃんと音がするし、周りは薄暗いので、昨夜来の雨がまだ降り続いているなともう一眠りと思うのだが、そこで生理的要求が感じられ、女あるじを起こして公園に出かけて用足しをする。このあと、公園内や団地の街路をあちこちと嗅ぎ回り、昨夜来の同胞の匂いを追跡するのを楽しみとしているが、雨がその匂いを消してしまうので徒労に終わる。朝の散歩はだたのおしっこをするだけと変じてしまうのだ。飼い犬にはもともと楽しみが少ない。朝と夕べの散歩と食じ、それに朝寝と昼寝くらいだから、散歩がただの生理的な用足しに堕してしまうと、吾輩としてはふて寝でもするしかなく、ストレスも溜まる。
 そこへ男あるじが、手に本を以てやってきて、「なんかイライラした顔をしているな。雨で外に出かけられないのでストレスが溜まっているのだろう。まあ、人間も同じだから我慢するしかないな。お天道様には勝てないからな。こんな時は古人も言うように晴耕雨読の雨読に限る。これは、『一〇三歳になってわかったこと』というタイトルの本で、いまやベストセラーになっている。著者は103歳になった篠田桃紅という有名な女流画家だぞ」と本を見せびらかせて話し出した。
 吾輩はちらっと本を見て、それにしても103歳とは恐れ入ったと頭を下げた。われわれイヌは何歳まで生きたら100歳になるのだろうか。人間の5年がイヌの1年として換算すれば20年になる。吾輩は16歳だからあと4年も生きながらえなければならない計算だ。こんな吾輩の思考回路を感得した男あるじは、
「まあそういうことだな。これだけ足腰が弱くなってくればあと4年も生きるのは無理だな。ということで、この本に戻ると、私も100歳の心境がどんなものか知りたくなってこの本を購入したわけだ。つまり、103歳になれば70歳とは違う高みに達したわけで、その人生観、死生観も自ずと悟りきったところがあるのだろうと思ったからだな。ここには、103歳に達した人の心境が短いことばで表されているぞ。たとえば『体の半分はもうあの世にいて過去も未来も俯瞰するようになる』と綴る。その意味するところは、『ここまで生きて、これだけのことをした。まあ、いいと思いましょうと、自らに区切りをつけなくてはならないことを次第に悟る』と語っている。ここでは、自分の来し方を振り返り、人にはできることとできないことがあり、自分の過去をみる見方に変化が起きるという。同じ過去の出来事でも90歳代での見方とはずいぶん違っているのだそうだ」と本を見ながらつぶやいた。男あるじは、100歳からみるとまだひよっこだ。こんな心境からはほど遠く、悔悟ばかりが先に立っているようだ。さらに続けて,
「こんな語録もあるぞ。『いつ死んでもいいというのは本当か』と自らに問い、これは本当ではないと答えて、『いつ死んでもいいと自分に言い聞かせているだけで、生きている限り人生は未完』と言い切る。つまり、いつ死んでもいいというのは人生やるべきことをやったと自分にいいきかせ、自分を納得させたいということから生じるという。まあ、その通りだと思う。生きている限り人生は未完だから、余生というものはなく、あるのは明日へと向かう未生なのだ」と話を結んだ。
 吾輩は、余生、残生、未生でもなんでもよいが、もともと風の吹くまま気の向くままに生きているし、かく生きるべきなんて考えても仕方がないので考えないことにしているから、イヌ生観もましてやイヌ死生観ももたない。死もまたなるようにしかならないと感じている。そのときはそのときだ、なんちゃって。

「ひまわりや陽に向かわんか顔を挙げ」 敬鬼

- 103歳の心境

徒然随想