梅雨が開けた。例年よりは遅いようだが子どもたちの夏休みにあわせるように開けたのは喜ばしい。子どもたちが一番うれしそうだ。プールにも行けるし、セミ取りにも興じられる。もっとも、吾輩は暑さに弱いので困る。せいぜい風通しの良いところで昼寝をするしかないな。女あるじの介添えで朝飯を食した。暑いせいか食欲はわかないが、女あるじは吾輩の好みそうなものを次々と出してきて口に中に押し入れるので閉口だ。そこへ、男あるじまで手に本を持ってお出ましになった。朝の内はこの辺は西からの風がけっこう吹くので気持ちがよいとみえる。103歳の高みからどんな景色が見えるか、想像がつくか。これはその年齢に達し、しかも頭も冴えているものにしかわからないことだな。かくいう私もわからない。どころかその御歳まで生きながらえるとはとうてい思えないからだ。本は便利だ。自分が直接体験できない境地を教えてくれる」とこちらの意向なぞ無頓着に話し出した。男あるじは、自分が読んで仕入れた知識を自分の中にしまっておくだけでは満足せずに、誰彼に話したくなるらしい。それが自分の体験でなくてもあたかも自分のもののように、講釈したくなるようだ。教師稼業が長いせいだと思える。教師というのは、他の人が明らかにした知識や事実を、あたかも自分のもののように話すのが仕事なのでしかたがない。講釈師見てきたように嘘を言いということわざもある。もっとも男あるじの講釈は手に汗握るような迫力はなく、聞いていてもつまらない。吾輩がこんなことを思っているとは露知らず、「それでだな、103歳の篠田桃紅女史は100年生きてきた人生訓その著書のなかでちりばめている。たとえば『幸福になれるかはこの程度でちょうどいいと思えるかどうかにある』のだそうだ。人生では良いことずくめの人はいないし、一生の間には良いときも悪いときもある。自分がこの程度でちょうど良いと決めれば、それがもっとも自分にとって良きことなのだと説く」と話し続けた。
 吾輩には、しごくあたりまえのことに感じた。吾輩はとっくに自分がこれで良いと思えれば、それがもっとも良いと納得している。朝晩の散歩が楽しく、朝餉と夕餉がおいしく、そして気持ちよく昼寝ができれば、今日一日は充実していたと感じることができる。それ以上のことは望まないし、望んでも得られないことを納得しているからだ。それでは一日が退屈でつまらないというご近所のイヌ仲間にはいる。しかし、このような心の持ち方が吾輩にはもっとも安らかに過ごせる生き方なのだ、と頭を上げて男あるじを見上げると、

「なかなか達観しているな。イヌも齢80歳を過ぎるとそれなりに悟りを得るものらしいな。桃紅女史も『これくらいが自分の人生にちょうどよかったかもしれないと、満足することのできる人が幸せになれる』と述べている。もし、あのときこうすればもっと出世したかもとか、あのときに投資していればもっと裕福になれたのにとか、その欲望には限りがなく、こんな状態では心安らかにいられない。でも、懸命に考え、決断し、そして精一杯努力した結果、いまの自分があると認められれば、これほど心穏やかでいられることはないな」と男あるじは話を結んだ。
 吾輩は、103歳におなりになる方の考え方がよくわかる。なにごとも、自分の思うままに、感じるままに生きておられるようだ。自分の心が感じ、心が考え、そして心が決めるままに生きるということが大事だと行っているらしい。なんとなく心が軽くなったような気がするなと男あるじを見上げたら、顔をそむけて家の中に入ってしまった。

「百日紅逝きし友らの顔浮かぶ」


- 103歳の心境 2

徒然随想