徒然随想

- 137億年の物語

 師走も半ば、外の世界はなんとなく気ぜわしい感があるが、わが庵は平穏だ。朝になると、暖かい陽が射すし、昼になると風のそよぎも心地よくなる。でも、日が沈むのだんだんと早まり、直ぐに暗くなる。こんな時は吾輩は「フィーンフィーン」と鳴いて男あるじを散歩に誘う。男あるじも暗くて寒い中を散布するのは嫌だと見えて、直ぐにも庭にやって来たが、今日はなにやら分厚い本を抱えていた。その本はなんざんすかと問うと、「これはだな、『137億年の物語』という本だ。なんとなんと、宇宙創生から現代までの全歴史が書かれているのだぞ。著者はクリストファー・ロイドという英国人で、ある新聞社の科学部記者として活躍した人だ。大学では歴史学を学んだと著者紹介に書いてある。このような壮大なテーマを著すきっかけは、自分の子どもにこの世界のことを教えるための教材として執筆したそうだ。」
 吾輩は、これにはびっくりした。137億年の歴史を、それが自分の子どものための教材とはいえ、執筆するとは無謀としかいえない。137億年と言えば、ちょうどビッグバンが起き、宇宙が誕生した頃に当たる。吾輩は、いい加減な本ではないのですかと目で問うと、男あるじは、
「それがそうではないのだな。母なる自然、ホモ・サピエンス、文明の夜明け、そしてグローバル化の4部で構成され、全部で42のトピックスから叙述されている。最初のトピックスは『ビッグバンと宇宙の誕生』、そして最後のトピックスは『世界はどこへむかうのか』で終わっている。」と本をめくりながら答えた。
 吾輩は、ただ「ジェジェジェ」と肯くばかりだった。日本の通史を叙述するのも大変な作業なのに、世界の通史ばかりか宇宙と地球の歴史をも踏まえているというではないか。学者先生では、細部にとらわれしかもエビデンスがどうのこうのと難しいことをいうので、こんなものを書こうという発想は生まれてこないだろうな。
 男あるじは、吾輩の胸の内を察したと見えて、
「まっことその通りじゃな。学者は木を見て森を見ずに陥りがちで、森全体を空から俯瞰することをしない傾向にある。歴史でも、自分の専門とする時代、たとえば戦国時代とすれば、その時代に関しては古文書や発掘資料というエビデンスに基づいて細部まで正確に詳しく記述することはできるが、しかし日本史の流れそして世界史の流れのなかに戦国時代を位置づけ、その時代の意義そして現代の与えた影響を解くという視点は薄いようだ」と応えた。
 吾輩も、男あるじが玄人の目とは異なる素人の目という視点があることを述べているので大きく首を振って肯き、賛同した。男あるじも、心理学では視覚心理を専門とし、その分野では専門的知識をもっているらしいが、人間の心理というか心の動きについてはまったく疎いようだ。人間を見るという点に関しては、人間観察に鋭い人の目、社会的経験が豊かな人の目、教育経験の長い人の目にはとうていかなわないらしい。きっと木を見て森が見えなくなったのだろう。それにしても、137億年の歴史を物語ろうとは、壮大な試みで、日本人にはなかなか発想しない視点だな、男あるじを見やると、そそくさと分厚い本を抱えて家の中に入ってしまった。吾輩は、「今日の散歩を忘れていますよ」と大声で吠えてやった。

「山茶花や これも億年 物語」 敬鬼