徒然随想

      8月15日

 正午、今年も黙祷の時刻になった。わが輩が生まれるはるか前に310万人ともいわれる犠牲者を出した戦争が終わった日を記念した追悼の式だそうだ。この家の男あるじや女あるじは、終戦の1年半前あるいは2日前にこの世に出生したので、感慨深いようだ。甲子園の高校野球も試合を中断し、球児たちは黙祷している。終戦から、66年余を経過し、戦争を知らない子どもたちが退職し、いまやその孫たちの時代に移っている。とりとめもなく、こんなことを思っていたら、男あるじがやってきて、
「終戦は我が人生と共に歩んできた感があるな。ということは、67回も馬齢を重ねてきたわけだ。最近、こんなことを考えるのだ。というのは、生まれ年から今まで生きてきた歳を遡るとどんな時代だったのかなと。そこで1944年を起点に67年前というと、1887年になる。なんと、これは明治10年になる。この年の春には西南戦争が勃発し、秋には西郷隆盛が自刃した。日本は、それ以来、日清、日露戦争を起こし、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと突き進んだ。まさに、日本にとっては戦争の67年だったわけだな」と話し出す。 わが輩は、なんのことかわからないので黙って拝聴することにした。男あるじは続けて、「明治27年生まれのおばあちゃんがよくいっていたことは、『いま生まれてきたものはそれだけで幸せだ。男の子が戦争にとられることはないし、言いたいこともいえる。どんな時代に生まれるかで、人間の一生は決まってしまうものだよ』と」
 確かにおばあさんの言われるとおりだな。この家の男あるじが明治10年に生まれていたら、日露戦争に徴兵され、203高地か、奉天で命を落としていただろうな。幸運にも昭和19年に生を受けたので、戦争を知らずにすんだわけだ。これは、神か仏の采配でなければ、運以外の何ものでもない。もっとも、わが輩も同様だ。ペットブームの時代に生まれたお陰で、番犬として庭に小さな小屋をあてがわれ、人間の食べ残しか、あるいは味噌汁ぶっかけご飯で腹を満たすような生活をしなくてすんでいる。なにせ、わが輩は、女あるじや娘あるじの口癖のように、りっぱな家族の一員なのだからな。わが輩が、下痢などしようものなら、すぐに医者に連れて行かれ、点滴だ。これには、わが輩も、ちと参ってしまう。若くてスマートな看護師さんがいなければ、抵抗するところなのだが、これもペット、いや大事な家族の一員の努めとして我慢している。過保護というか過世話というか、良い加減が一番よい。
「そうだぞ、どの時代に生まれるかはイヌの運命も決めてしまうのだ。こればかりは自分で選択できないので、受容するしかない。特攻攻撃に志願した青年達も、自分たちがこれからの日本の礎とならんと念じて散っていったと聞いている。だからこそ、戦後、われわれの世代が頑張って、いまの日本を築いてきた。明確にそのことを意識していなくても、意識の下部には、戦死した人たちがわれわれ世代に託した思いを受けとめていたと思うよ。だから、戦争、核兵器、そして基本的人権を侵す思想統制には、敏感に反対してきた。そして、創意工夫し、産業を回復させ、良いものを製造して輸出し、外貨を稼いだ。こんな自負がみなもっている。だから、そのような功績のある世代の老後が不幸になるのはみていられない。」 
  これには、わが輩もまったく同感だ。お年寄りは世間の役に立たなくなった無駄飯食いなどではなく、功労者なのだ。当然、その労に政府や世間は報いるべきだ。わが輩達の老後も同様だ。老いさらばえれば毛並みは悪くなり、のろのろと歩き、失禁もする。かわいいかと言えば、けっしてかわいくはない。でも、かわいいときもあり、それなりに家族の安泰に寄与してきたという自負がある。さて、わが輩の老後はどうなるのだろうか。

「笹舟は流れる水に逆らわず」 敬鬼