徒然随想

 男あるじは、夕方、散歩に行くために庭に出てきて
「今日で7月も終わり、明日からは8月だ。この間、新年の行事を済ませたばかりと思っていたら、今年も後5ヶ月しか残されていない。さきほども、FM放送を聞いていたら、なんと731日が終わるまでのカウントダウンをしていた。後6時間1530秒、29秒、28秒とな。1231日のカウントダウンならば恒例だが、731日にカウントダウンとは恐れ入ったものだ。きっと、年配のディスクジョッキが月日が流れるのの早さを実感してのカウントダウンだったのだろう」と話し出した。 吾輩も1日の時間が経つのは早いことを実感している。この暑さだから、動くに動けず、朝のうちは風通しの良い縁の下で、昼からは部屋のエアコンの効いたところで、夕方は少しの間の散歩を別にすれば、これもエアコンの効いた女あるじの部屋で、いずれも寝てばかりいるので、時間が無為に過ぎ、記憶に止まることがないので時間の過ぎゆくのをを早く感じても無理もない。男あるじも
「子どもの頃の1年は長かったと記憶している。お正月、節分、ひな祭り、5月の節句、七夕、夏休み・・・・・。でもいまはどうだろうか。物理的に同じ時間なのに、1年は短く、冬から春、そして初夏、盛夏、初秋、晩秋、師走とあっという間に過ぎてゆく」と嘆く。
 吾輩は安心した。そうか男あるじも同じ思いなのか。そういえば、吾が幼少の頃の1日は長かった記憶がある。朝起きると散歩にでるが、そこで嗅ぐ匂いは目新しく、いや鼻新しく、あちこちと鼻を突っ込んでは探索した。途中で出会う仲間たちも、待ち伏せする柴犬、お上品なレトリーバー、やんちゃなトイプードル、のろまなダックスフンド、リボンをつけたチワワにプードルと多彩で飽きることがなかった。きっと、印象に残る体験の記憶の密度が高いと、1日の時間は長く感じるのではないだろうかと男あるじは見やると、
「それは当たっているな。人間も犬も幼少時は見るもの聞くもの、みな初めて体験するものばかりで、たとえてみると自分の目の間に道はなく、道を開拓しながら1年を送るようなものだ。でも、熟年から高齢になるにしたがい自分の前にはこれまで送ってきたとほぼ同じ道があって、その道を大過なく過ごしていくことが歳をとることになる。そうなると、記憶に残る印象的な体験はほとんどなく、過ぎし月日は平坦で一様にしか感じられない。これは一日を充実して過ごすか、あるいは無為に過ごすかとは関係ないことで、新規な体験を持つか否かである。高齢になると、人の死さえもほとんどが体験済みのことばかりで、心に印象的なものとしては残らなくなる。これが幼少者と高齢者の時間の心理ではないだろうか」と解説した。
 吾輩も、同感の意思表示を尻尾と、音声でワンワンと吠えて示した。吾輩にとって一日のもっとも楽しみである散歩も、幾通りかある散歩コースを男あるじのその日の気まぐれによる選択で歩くばかりなので、新奇な匂い、目新しいお仲間、一癖あるライバルに出会うことは滅多にない。これでは、吾輩の記憶に残りようがないので、昨日の散歩コースさえ思い出せないわけだ。これは男あるじにもいえることだ。朝夕の散歩、時たまのテニスとスイミング、午前中の書斎での読書ともの書き、午後のテレビシアターと習慣化したスケジュール通りに進んでいる。きっと、目新しいことはなにひとつ体験せずにベッドに入っていることだろう。でも、これが定年後に誰でもが送っている一日で、これを充実させるか無為なものにするかはその人次第なのだ。

「百日紅見てはあの日に帰りなん」 敬鬼


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