徒然随想

-赤とんぼ−
   わが輩が昼寝から目覚めたら、夕暮れだった。そこへ、赤とんぼが飛んできた。この夏、はじめての御入来だ。目を細め、動かないようにして見ていると、近くの垣根に留まって羽根を休めた。しばらく、わが輩がじっと観察していると、あのトンボメガネをくりくりさせながら、それでも飛び立つことなくとどまっている。尾っぽはまだ、真っ赤ではないが、薄紅色あるいは薄黄色といったところか。きっと、秋が深まり気温が下がるにつれて尾っぽも紅葉したように赤くなるのだろうな。
 そこへ、近所の幼稚園児ケンちゃんを連れて男あるじが庭に出てきた。ケンちゃんは、目敏く赤とんぼを見つけ、そろそろと近づいていったが、あっという間に青空に飛び立ってしまった。ケンちゃんは、さっと家の中に引き返し、捕虫網をもってきた。しかし、赤とんぼはもう、懲りたのか、舞い戻ってはこなかった。
 男あるじは、
「蝉のようにはトンボやチョウチョは捕まらないよ。蝉は木にとまっておいしそうに樹液を吸って油断していることもあるが、トンボは羽を休めているだけなので、あたりを常に警戒している。そういえば、ケンちゃん、なんでトンボという名前がついたか知っている」と尋ねた。わが輩は5歳の子どもに訊くことではないだろうと目配せしたが、そんなことは意に介さずに、まじめに尋ね続けた。ケンちゃんは、訊かれていることはわからずに、「トンボはトンボ」と、これも男あるじの問いには意に介さずに答え続けた。なんとも奇妙な珍問答だ。それにしても、わが輩もトンボの語源は何だろうな、といぶかった。男あるじは、
「そうだろうな、実はわたしも知らなかったんだ。そこで、ふと思いついて調べてみたわけだ。これは『飛ぶ』と『棒』あるいは『羽』が合成され、『とぶぼう』あるいは『とぶはね』となり、『トンボ』となっていったそうだ」と講釈を垂れた。
 わが輩は、なるほど、飛ぶ棒、飛ぶ羽かとわれながら妙に感心した。男あるじは、続けて
「日本の秋の風情には、この赤とんぼが欠かせない。というのも、童謡『赤とんぼ』が日本人の秋に託す心を赤とんぼを通してしんみりと歌っているからだ」。というまもなく、調子ぱっづれで歌い出した。
(1) 夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われて 見たのは いつの日か (2) 山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか (3) 十五でねえやは 嫁に行き お里の 便りも 絶え果てた (4) 夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先(三木露風詞、山田耕筰曲』
 うーん。わが輩も、童謡にしては哀調のある歌詞と調べだなと感じた。きっと、これには、歌物語があるのだろうな。こんなことを察知して、男あるじは、
「この童謡は、母親がいなく寂しかった幼い自分を、子守のために雇われていたねえやがよく負んぶしてくれたな、そんなとき、赤とんぼが飛んでいたなと成人した作者が懐かしんだ歌なのだよ。だから、童謡と言うよりは、歌謡曲に歌われるような心境が綴られている。そして、幼い頃のふるさとの情景が心に浮かんできて、もはや帰れない過ぎし日々のことが懐かしくも哀しく思い出されてくるのだね。いわば、だれもが心に留めている幼き頃の思い出が、晩夏から秋口という日本の風景のなかに歌われているので、共感を呼ぶのだろうな」と結んだ。
 わが輩も、季節は匂いで感じることができる。夏は草と土とで醸し出すむせるような匂いがあるし、秋はどこからともなく運ばれてくる空の香しい匂いがある。人間どもは、赤トンボや鈴虫などの虫に秋を感じ、しかもその虫たちを通して幼き頃の母親との思い出をたぐりよせる、まことに情緒的な動物のようだ。

「あかとんぼ 追いつ追われつ 戯れり」 敬鬼