徒然随想

-秋は夕暮れ

  わが輩は夕方に散歩に出る。まあ、男あるじの散歩につきあってやっているのだが、わが輩にも一日で唯一外の世界を知る時なので楽しみでもある。なにせ、朝寝と昼寝をむさぼっているので、夕方になるとさすがに退屈このうえない。こんなときに、男あるじ、時には女あるじ、あるいは二人を連れて散歩に出るのは楽しい。お相伴の相手が女あるじだともっと楽しい。というのも、女あるじはわが輩をけっしてコントロールしようとはせずに、わが輩の気が向くままにあちらといえばその方向に、こちらといえばこの方向においしい匂いを求めて行くことができるからだ。それにしても、9月になれば、陽の落ちるのも早くなってきた。お陰で涼しさも増し、散歩には快適になったが、こうも早く暗くなると、侘びしいというか、寂しいというか、1日の終わりを惜しむ気持ちが強くなるのは我ながら意外だ。
  男あるじも、秋の夕暮れにこんな気持ちを感じているとみえて、ずいぶん早くわが庵に現れた。そして、「なになに、秋の夕暮れは侘びしいってか。ふーん、歳のせいだな」とわが輩の老齢を馬鹿にしたようにつぶやいた。そういう男あるじも老齢なのではと眼で問うと、
「ふん、何をぬかすか、わしは熱中症にかかるような柔な身体ではないわ。歳は取っても、身体は50代を自認している。それにしても、秋は夕暮れとはこれいかにだ。秋は夕暮れに限るといったのは、枕草子を書いた清少納言だ。春はあけぼのが一番趣がある、夏は夜が良い、満月の夜は特によい、冬は、なんと早朝が良いのだそうだ。雪が降り寒く身がしきしまる感じがこたえられないんだという。そして秋は何が良いかというと、夕暮れなんだそうだ」と話し出した。
  わが輩は、清少納言という人は季節ごとに1日で最も良い時を枕草子とかに書いているんだと言うことを知った。大した女性だな。感性が豊かなんだろう。今時の女の人は、季節が変わったのも気がつかないような暮らしをしている人が大半なのに。季節の変化、1日の時の変化に聡い女性は、きっと風趣に飛んだ心の持ち主なのだろう。この家の女あるじは、教師家業をしているときには季節の変化に気遣う余裕もなかったらしいが、退職してからは庭に季節の花を植えて、季節を演出しているのでそれなりに感性豊かに過ごしているようだ。人間も余裕というものがないと、感性も衰えるのか、あるいは感性を働かないように押さえ込んでしまうようだ。ところで、秋はどうして夕暮れなんですかと問うと、
「それはだな、枕草子にはこんなふうに書かれている。『秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず』。どうかな、わかるかな。つまり、夕日が山の端に沈む頃になると、二つあるいは三つとカラスがねぐらに飛ぶのが見え、雁も渡りをするのか遠くの空に見えるのは趣がある。日が沈んでしまうと風の音や秋の虫の音が聞こえてくるが、これなどはとくに風趣に富んでいる。まあ、ざっとこんな情景が見え、聞こえる。だから、秋は夕暮れがもっとも良いのだと清少納言は語っている。」
  わが輩は、清少納言という女の人もわが輩と同じ感性を持っていたのだと感心した。確かに散歩をしていると、夕日が山の際に沈んでいき、それとともに周囲の景色は影を増していく。いまでは雁は見えないがカラスはカアカアと三々五々ねぐらにむかって飛び、ツクツクボウシツクツクボウシと鳴いていた蝉の音も小さくなり、草むらではコオロギが鳴き出す。さらにわが輩には、暗くなった茂みからか良い匂いが流れてくるのが鼻に触れる。秋の夕暮れには、こんな風に短時間の間に周囲の情景が刻々と変化し、1日の終わりが演出される。わが輩も、1日の喧噪から静寂への移り変わりが「いとをかし」と感じるようだ。

「秋の夕 法師ゼミから 虫の音へ」敬鬼