風が心地よい季節になった。夏の風は暑いし、春の風は強くて、まだ冷たい。冬の風は言わずもがなだ。木枯らしなど、毛皮を着ているわが輩でも耐えられない。歳をとれば、毛皮も薄くなりなおさらだ。それに較べれば、仲秋の風は、わが輩の長い顔とひげにさらさらと気持ちよい感触を奏でてくれる。天高く晴れ渡り、やや気温があがってきたところに吹く風は、うたた寝をいっそう心地よく導き、至福のときでもある。
 でもこんな時に決まって、お邪魔虫がお出ましになる。男あるじも、風を顔に感じながら高く晴れた空を見上げて、「うーん、こんな気持ちの良い風は久しぶりだな。あの夏の夕方に吹く風の暑さには、ほとほと、まいったが、それに較べると、この秋の風は心を癒してくれるな。日本の秋は、彩りも鮮やかだが、吹く風も風情がある」と殊勝げにつぶやいた。
 わが輩も、こんなときには、心の感じるままに一句をものにしたく、
「バウバウ フィーンフィーン バウフィーン」とつぶやいたが、イヌ族の言葉の理解のが乏しい男あるじには、通じないようだ。もっともバウリンガルがあっても、この高尚な一句は通訳できないのだろうな。残念。
  わが輩のこのつぶやきに対して、男あるじは、
「なになに、しっこがしたいのか、こんなときに無風流な」と、近くの公園に連れ出した。わが輩は、真っ昼間の散歩も悪くはないなと、おとなしく従うことにした。男あるじは、歩きながら、
「風は、もちろん、空気の流れを指していることばだ。わが国土には季節季節でさまざまな風が吹く。暖かさとやわらかさを感じさせるのは春風、まだ冷たさの残るものの春を感じさせるのは東風、これらは春の季語である」と講釈を始めた。
「薫風は緑の香りをたっぷりと含んだすがすがしい夏の風を、梅雨時に黒雲を運んでくる湿気の多い風は黒南風(くろはえ)、梅雨明け間近に吹く曇天を一掃する気持ちの良い風は白南風(しろはえ)というのだ。日本人は、季節や季節の変わり目に感じる風を適切にことばで命名、識別して、感性豊かな言語を作ってきた。青々と茂る木々の葉や草を揺さぶる強い夏の風は青嵐、そして台風の暴風は野分けと呼ばれた。芭蕉は『更級紀行』で『吹き飛ばす石は浅間の野分かな』と吟じているな」
 わが輩は、左の耳から右の耳へと聞き流しながら、ガールフレンドの匂いをあちこと探したが、委細お構いなく、
「風という言葉は、物理的な空気の流れから敷延して、風雅、風采、風情、風習、風説、風俗、風評、風流など多くの言葉が生まれたのだな。この場合、『風』は自分の身のまわりや世間にに起きる人々や社会の様子を指し示す言葉になっている。『風評被害』は、原発災害が起きたいま、時流の言葉だな。間違って広められた世間の評価による被害のことを言う。世間の評価が風のように広まる様を言っている。風雅、風情、風流は良い言葉だな。これらはいすれも優雅で趣のある様をいう。これにぴったりとする英語の語彙はないぞ。attractive, charming, tasteful, elegant, poetryなどの形容詞などで言い換えるしかない」と男あるじは興に乗って続けた。
 わが輩も、日本語というのは、知情意を適切に表現できる言語体系なのだなと、こればかりは感じいって聞いた。なんにしても、日本人のご先祖様は偉い。理数系の知識から、微妙な情意まで表現できるのだからな。でも、最近はカタカナ言葉が多すぎないかな。コンピュータ、プリンター、マウス、ネットワーク、はたまたCDDVDiPhoneiPad。日本語が表意文字から表音文字へとしだいに移行しているようだな。

「秋うらら 風に誘われ 人を訪う」 敬鬼

徒然随想

     −秋風に訪う