吾輩の男あるじは、時々、吾輩の行いに対して理解できないことばをはく。そのようなもののひとつに「あっぱれ」と「かつ」がある。なんでも、日曜日のあるニュースショーのスポーツ番組で使われている言葉をマネしているようだ。
  そこで、吾輩もその番組に聞き耳を立てると、マリナーズのイチローの9年連続オールスターズ出場にあっぱれが連発されているし、全英オープンゴルフの石川遼君には激励の喝が投じられていた。
  どうも、優れたことをなすと「天晴れ」が、期待はずれなプレーがでると「喝」が与えられているようだ。吾輩は、最近は、こんな言葉は使われないなと思って、男あるじに聞いてみる。
「そうだな、このような言葉はもともと、お殿さんが家来に使っていた言葉だな。家来が手柄を立てると天晴れとほめていたわけだな。喝も同じようなものだ。ただ、こっちはもともと禅宗で使われていたもので、偉い坊さんが修行者に喝といって大声を出して叱咤し、激励していたんだそうだ」
  吾輩は、なるほど、そういう言葉だったのかと納得する。テレビ局の人が、きっと、死語になっていたことばを探してきて使うようになり、今の人たちには新鮮に響くのだろう。
  そこへ、女あるじがやってきて、干し物をしながらわが輩たちの話を聞くともなく聞き、
「良い行いをしたら誉める、悪いことをしたら叱るということ自体がなくなっていることが問題なのよ。言葉の問題じゃないのよ、誉めるとか叱るとかの行いが無くなったから、死語になってしまうのよ」とのたまう。
  男あるじはきょとんとして口をあんぐりあけた。吾輩は、首をおおきく上下させ同感だという信号を送る。女あるじは続けて、
「誉めるとか叱るとかは、上に立つ人が行うことなのよ。今の年配者は、自分にちゃんとしたものがないから、何を誉め、何を叱ってよいのか分からないんだわ」と述べた。
  吾輩は、その通り、その典型が男主人だというように見やる。男主人は、吾輩に対して叱るときも、めったに誉めはしないが誉めるときも、自分の気分によって行っているようだ。これじゃ、吾輩だって信用しない。きっと、家庭でも、学校でも、はっきりと誉めるとか、叱るとか、していないのだろうな。子どもからみれば、どういう行いが期待されているのか、どういうことが悪いことなのか、その基準ができていかないだろうなと思う。
  男あるじは、何か反論したそうだったが、ぶつぶつ吾輩に聞き取れないことをつぶやき、自分の部屋にこもってしまった。
  
 子の曰わく、「已矣乎(やんぬるかな)。吾れ未だ能く其の過(あやま)ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり」
  孔子も嘆くくらい、こんな人は、いつでもいたんだな。


徒然随想

-天晴れと喝-