わが輩は、年のせいか、夜寝るのが早くなり、朝目覚めるのも早くなってきた。6月も半ばとなると、4時頃には空が白み始め、鳥のさえずりも聞こえてくる。ヒヨドリだ。電線に留まり、甲高い調子で「ピーロ、ピョーロ、ピョロピョロー」と鳴く。まるで「朝だよ、朝だよ」と言わんばかりに青空にクチバシをたてて鳴く。ヒヨドリには、朝ぼらけに声を張り上げ、おのれの存在を鳴くことで主張するのが日課の始まりなのだ。ヒヨドリには朝のお勤めかもしれないが、わが輩にはあの甲高い鳴き声は頂けない。雀の「チュンチュン」ツバメの「キューキョー」はかわいらしく、耳にも心地よく響く。でも、最近、雀もツバメもが少なくなったのが気がかりだ。雀にかわって、椋鳥が集団で公園に来るようになった。どうも、雀の集団を追い出してしまったのかもしれないな。
  朝のひとときを、こんな風にあれやこれや見ながら思っていると、男あるじも目が覚めたのか、庭にお出ましになった。やれやれ、これでヒヨドリよりも騒がしくなりそうだ。男あるじの声は甲高いうえに、メリハリがなく一本調子なのでとらえにくいのだ。これでは、学生も眠くなるというものだろう。がそんなことはおかまいなく、
「朝もまだ明けやらぬこの時は最高だな。とくに、風はまだ涼やかで気持ちよく、鳥の鳴き声も澄んだ空気によく通るので、きれいに聞こえる。『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる』と記したのは清少納言だ。春はなんといっても早朝が趣があってよい。山の頂も陽が昇ってくるので少しずつ明るくなり、そこに紫色の薄く細い雲がたなびくのをみると、なんともいえず心地よい感じがする。まあ、こんな意味だな。いまは、梅雨時だが、今朝は雲が切れて晴れているので、だんだんと白んでいく空の下、山の連なりも遠望できて気持ちよいだろう」と男あるじはわが輩をふり返った。
  わが輩は、返事をしかねて、男あるじの顔をまじまじと見た。というのも、日頃は無粋な男あるじが、趣があるとか、いとおもしろしなどと話すと、背筋がぞくとしてくるからだ。なんでも男あるじの専門は知覚心理学だそうだ。これは人間や動物が感覚器官を通して外の世界をしるしくみを研究の対象としていると聴いた。とくに、わが輩イヌ族と違って人間族は眼が優れているらしいので、眼でものを見て、その形、色、大きさ、奥行などを知ることができるのはどのようなしくみによるのかといったことを探っているらしい。つまり、見るしくみには関心があるようだけれども、見たものをどのように感じるか、好ましいと思うのか、嫌らしいと思うのか、ということについては興味がまったくないのだろうと思っていたからである。男あるじも、わが輩の思いを察したらしく、
「その通りだ。人はただものの存在やその性質を知るだけではなく、そのものに対し感情を抱く。若い女の人を見れば健康で美しいと感じる。これはおまえがお気に入りのご近所のハッピーちゃんを見て鼻の下を、いやよだれを垂らすのと同じことだ。嫌な人、苦手の人を見れば、顔にその感情が表情として出るのも、知覚と感情が密接にリンクしているからだ。趣のあるシーンに出会い、おもわず感嘆の声を発することもあるだろう。おまえたち犬族では、感情表出としては吠えたり、しっぽを振ったりすることになる。逆に、何も見ても感動が起きなければ、これはこれで毎日が砂でも噛んでいるようで味気なく、苦しい。花を見てかわいらしいと感じる、アイスクリームを食べておいしいと感じる、海を見て広くて大きいと感じる、絵をみて心を動かされる、音楽を聴いて心が踊る、これらはみな、知覚と感情が一体として起きるからだ。そして、これが人生に、はたまたイヌ生にとって不可欠なものなのだ」と結んだ。
  なるほど、見ることは知ることであり、そして感動することなのだな。わが輩イヌ族にでは嗅覚と感情とは密接にリンクしているので、人間どもには経験できない感動も生じていることになるな。そういえば、朝ぼらけには特有のすがすがしいまろやかな匂いがあるが、これは人間どもにはわからないだろう。

「朝ぼらけ つばくろの子 鳴き交わす」 敬鬼

徒然随想

-朝ぼらけ-