久しぶりに知り合いのケンちゃんが遊びにやってきた。5歳児だが、大柄で力も強く、活発だ。はじめは、わが輩を怖がって近づかなかったが、慣れてきたのだろうか、わが輩の頭などを手で触れるまでになった。わが輩は咬みついたり、吠えたりしない安心できる存在だとようやくわかったらしい。親愛の情をわが輩も示さねばと、後ろ足で立ち、前足でその子の胸をどんと押したら、いきなりだったのでびっくりして泣かせてしまったこともあった。でも、元気でかわいい子だ。この子は、なぜか、男あるじと波長が合うらしい。わが輩の家に来ると、いの一番に、2階に駈けのぼり、
「おじちゃん、遊ぼう、遊ぼう」という。男あるじも、このかわいらしい誘いはまんざらでもないようで、
「よし、遊ぼう、何して遊ぼうか」と応じている。
「まず、ゴセイジャごっこ。ケンはゴセイレッド、おじさんは何になる?」ときく。
「おじさんはゴセイジャブルーだ、さあ闘うぞ」と楽しそうに応じている。
 わが輩も、2階の様子を玄関からうかがっていると、二人とも手に新聞紙を丸めて剣にしたものを振りかざし、階段を駆け下りてきて、バシバシと新聞紙の剣で叩き合っている。たわいない遊びだが、これがケンちゃんには楽しくてしようがないらしい。
「そうだぞ。子どもは『ごっこ』遊びが大好きだな。自分の興味のあるものに、まず変身し、その役割を演じてみたいと思うのだな。男の子は、強いものにあこがれるので、怪獣や悪者をやっつける強い存在になってみたいと思う。ケンちゃんも、きまって、強い存在にあこがれ、それを演じている。でも、これは架空の世界のことだということもちゃんと理解している。まあ、『ごっこ』遊びは、社会のなかでの役割行動、男としての、女としての、父親・母親としての、あるいはそれぞれ職業人としての役割行動を身に付けるきっかけとなる。『ごっこ』遊びのなかでは、その遊びをさらに楽しくしていくための創造力・想像力も育っていくのだよ」と話し出した。 でも、わが輩から見ると、もっとも楽しんでいるのは男あるじではないだろうか。遊びを楽しくするために、新聞紙を丸めて剣を作ったり、新聞紙の兜をおってやったり、はたまた、振り下ろすと大きな音がする武器を作ってやったりしている。
「遊びは創造力を養うのだ。ケンちゃんの動きを見てごらんよ。ただ、剣を振り回しているだけではないだろう。相手の隙をうかがって打ち込もうとしているし、時には身を沈めたり、転ろげたりしている。側にあったバスタオルを楯にしたり、振り回して武器にしたりもする。このように、遊びの中に自発的に新しいものを工夫して実行することが、心身の発達に大事なんだな」となにやら、男あるじは自分の子供心を隠すように話した。
「そういえば、平安時代の今様歌謡にも『遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ(梁塵秘抄)』とあるぞ。子どもというのは遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、私の身体も自然と動いてしまうと、ここでは唄っている。子どもというものは、未来からの預かりものだ。元気に遊ぶ子どもを見るのは、実に楽しいものだ」と、男あるじは遠くを見つめた。過ぎし日の子ども時代を懐かしんでいるのだろうか。はたまた、この子の行く末を思っているのだろうか。

「団栗を 手に幼子が 遊ぼうと」 敬鬼

徒然随想

     −遊びをせんとや生れけむ