徒然随想

-遊び心−
  この秋は、雨が良く降る。吾輩は、こんな日が一番きらいである。なにせ、庭で丸まって昼寝ができないし、最大の楽しみである散歩がつまらない。我が犬族は、他のものの匂いを嗅いでコミュニケーションをとるので、雨が降ると、匂いが流されたり覆われたりしてしまい、匂い社交ができないのだ。そこで、僅かな匂い痕跡を求めて嗅ぎまわるのだが、これを、この家の男主人は、
「しつけがなっていない,権勢欲が強すぎる」
とか何とか訳の分からないこと言い、吾輩の首の綱を引っ張って牽制する。吾輩も、一日の最大の楽しみである匂い社交の機会なので、そんなに簡単に諦められないので抵抗し、吾輩の固い意志を示さんとする。すると、
「甘やかしすぎだ、しつけのやり直しがいるな」
とぶつぶつ言い、ますます綱で吾輩の行動を規制せんとするのでほとほと困る。
  こんなときに意志を伝えることばがあればと思う。人間族は、社交のための良い道具であることばをもっているので、この点についてはうらやましい限りだ。犬族の祖先は、何で匂いなどという微妙なもので社交をしようと考えたのだろうか。
  吾輩は、自分の意志を伝えるために、懸命に努力する。寒い日、雨の日、雷が落ちそうな日は、家の玄関の中で丸くなっていたいので、庭先に繋がれることを断固拒否すべく、足を踏んばって抵抗する。
すると、この家の男主人は、
「おや、犬にも意志なるものがそなわっているのか」
といった目つきで、吾輩の顔を不思議そうにのぞき込む。
「飼い主に逆らうとはなんて奴だ」
とでも言いそうな顔をしている。少し、意志が挫けるが、ここで引っ込んでは我が犬族のこけんに関わると、ますます足を踏ん張る。
  男は単純で、阿呆なので、力ずくで吾輩を支配しようするが、こんなとき、この家の女どもはずる賢いので、すぐだまされる。  
「よしよし、それじゃ、抱っこでゆきましょう」
といって、吾輩をひょいと抱き上げ、庭先の所定の場所に運ぶ。吾輩も、抱っこされると気持ちがよいので、意志が萎え、何をしたかったのか忘れてしまう。  
  人間族は、意志などという高尚な心の働きは自分たちにしか備わっていないと感じているらしい。意志は、自ら進んで何かを成し遂げようとする積極的な気持ちをいうが、昨今の人間の子どもたちをみていると、とうてい、われわれ犬族ほど強い意志を持っているようには感じられない。学校、塾、お稽古ごと、遊びをする子どもたちをみていると、ママに言われたので、しかたなく、惰性でしているようにしか感じられない。子どもばかりでなく、大人でも強い意志をもって働いているものはどのくらいいるのだろうか。
  意志を示そうとすれば、必ず何かの抵抗にぶつかる。そこで意地を通そうとすれば、漱石先生のように、窮屈と感じる。大抵の者は、いい加減のところで矛をおさめるか、あるいは、上の者にひょいと抱っこされている間に、意志が挫けてしまうようだ。最近、新聞によく出てくる抵抗族は、意地を通しているので立派にみえるが、その背後に欲の面の皮が透けて見えると興ざめだ。
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」
  本当にそうだと吾輩も思う。吾輩の小さな仲間たちがころころと転がるように遊んでいるのを見ると、吾輩もつられて楽しくなり、感激のあまり、おもわず自分も思いっきり走り廻りたくなる。
  でも、最近は犬族ばかりか人間族の子どもの歓声も聞こえないようだ。聞こえるのはテレビのタレントの喚声と嬌声ばかり。