徒然随想

-晩夏に思う

  さしもの酷暑もいくぶんかは和らいできた。これまではわが庵とする縁の下に吹く風も熱風で、とてもではないが昼寝をしてはいられなかったが、明らかに風の中にも涼やかさが感じられる。そういえば、アブラゼミの鳴き声もやや小さくなり、時折、ツクツクボウシの鳴き声も混じるようになったようだ。
  わが輩は、熱中症からの回復のためにひたすら昼寝に務めていると、こんな時に限って男あるじが庭に出てくる。男あるじも涼やかな風を求めてのことだろう。
「なになに風が気持ちよいってか。ほんとうにそうだな。さすがの盛夏いや酷夏も過ぎていくようだ。お互いに歳を取ると暑さは堪えるな。」とつぶやいた。
 わが輩は、知らん顔をして顔ももたげずに寝たふりをしていたら、男あるじは縁の下を覗き込み、わが輩の首輪を持つとわが輩を引きずり出した。これにはむっとしてワンワンと吠えてやったら、男あるじもちょっとびっくりしたようだ。いつもは素直に出てくるのに、吠えられたからだろう。だが、こんなことで反省する男あるじではない。びっくりさせられた腹いせに、わが輩は頭に一発げんこつを見舞わせられた。しかたがないので、お座りをして首を垂れ、従順な態を装った。
 「うんうん、イヌは素直でなければかわいげがないな。反抗するイヌ、自己主張するイヌ、はたまたやたらにものをねだるイヌは願い下げだ。イヌにまで抵抗されたのでは、わたしの立つ瀬がない」と強く叫んだ。
 どうやら、家の中では女あるじにも娘あるじにも頭が上がらないのでわが輩にむかって鬱憤をはらしているようだ。男あるじは、わが輩に心底をみられたと悟って照れ隠しに、「まあなんだな、夏の終わりは涼しくなるのはよいが、寂しくもあるな。夏のはじまりはまさに生と性を謳歌するときが来たという感じだが、夏のおわりは生と性の宴のおわりという感じだな。日の出は遅くなり、日の入りは早くなる。陽射しは家の中に差し込むようになり、影が長くなる。そういえば月も煌々とその輝きを増したようだ。『皆一つ齢を重ねてゐし晩夏』と詠ったのは稲畑汀子だ。生と性の宴が終われば、歳をとるように感じるというのだな。これなんぞは、歳をとるのは年末ではなく、感性的には晩夏だということを詠っている。『又一つ旅を終へたる晩夏かな』。これも稲畑汀子の俳句だが、これは生と性の旅だろうな」とつぶやいた。  わが輩も、この説には異論はない。夏は身も心も軽くなり、歩くよりは駆け出したくなる。人間もこの季節には盆踊りと称する踊りに興じる。これも生と性の宴だな。そういえば、『えらいやっちゃえらいやっちゃよいよいよい、踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆ならおどらにゃそんそん』の阿波踊りも、おもしろうてやがて悲しき踊りかなだな。男あるじのいう生と性を謳歌し、そして去ってゆく趣がよく出ている。
「そうだ、おまえもようやく晩夏の何たるかが分かってきたようだな。夏は生と性を謳歌し、そして秋にその命の営みをを深く感じ取る。人間の一生もきっと同じだな。」と結んだ。
  わが輩も馬齢を重ねてきたので、男あるじの言わんとするところはよくわかる。いまや生と性が燃え尽きようとしている。次の夏が来るかどうかは定かではないから、いっそう、その思いが深くなるのだろう。それにしても、この夏の炎暑は何とかならないものだろうか。燃える生と性より、涼しい環境がもがもだな。

「雲流れ 風音聞ける 晩夏かな」 敬鬼