7月も下旬、来週からは8月だ。正月、家族皆があつまって賑やかだったあの日から、もう7ヶ月が経過したんだな。わが輩も歳を重ねてくると、季節季節の過ぎゆくのがいとおしくなる。とはいうものの、繋がれて、しかも当てがい扶持の犬生には、自由度は少ない。まあ、そんならちの開かないことをぐだぐだ考えても、状況は変わらないので、1分1秒を大事にして朝寝と決め込もうとしたときに、間が悪く、男あるじが近づいてきた。
「そうか、そうか、おまえも無聊を託っているんだな。まあ、確かに一面では似た境遇にある。人間は目に見える綱では繋がれているわけではないが、時間、空間、そして金銭、人間といった物理的そして社会的な綱で繋がれているといってもよいな。わしは運良く定年退職したので、生活のために働くという綱ははずれた。子どもたちも成長し、自立しているので、この綱もはずれた。もっとも、心配事や気がかりなことはあるにはあるが、これは親としての綱ははずれないってことだな。まあ、けっこうな隠居身分にみえるだろうな。でも、社会との綱がまったく切れてしまうと、これも寂しいものだぞ」
 わが輩は、朝寝を邪魔され、不機嫌を顔にだして、また愚痴っていると少し強く吠えたところ、男あるじは、それに気が付いたとみえて、
「うーん、どうも最近は考え方が後ろ向きでまずいな。これも、病気や膝の怪我のためだな」とちょっと恥ずかしそうだ。
 わが輩は、まどろみながら、人間という手合いは、社会との関わりを持たないと生きては行けない存在らしい、と察した。わが輩犬たちは、孤高であることこそ賞賛されるが、群れとの絆が断ち切られても痛くも痒くもない。いま、自分がその時を満喫していれば、群れから誉められようと、貶されようと、はたまた,無視されようとけっこう、毛だらけ、猫灰だらけだ。でも、人間は違うようだ。人間は社会から自分が必要とされていることを求める動物なんだな。男あるじは、反論するように、
「そうだぞ。無為徒食は人間世界ではゆるされないのだ。だから、職業を持って仕事をして、それなりの金銭を頂いたり、稼いだりする。仕事をしているかぎり、社会とのつながりがある。つまり、多くの人たちは仕事を通して自己実現できるので、これが生きがいとなる」
 そうすると、定年退職した後の生きがいは何になるのですか、と上目遣いに問うと、
「それが問題だ。まあ、それなりに教育や研究を通して貢献したという自負はあるが、その自負だけではこれからは生きては行けないだろうな。つまり、新たな自己実現の目標が必要になる」 なるほど、毎晩のビールだけでは生きがいとはならないらしいな。泡は消える運命にあるし、はかないものだ。パンのみにて生きるにあらずとか。されどパンがなければ生きられないしな。人間とは難しい生き物だな。生半可な智恵が備わったので、懊悩しているようだ。余生は悟りを開くことに捧げたら、と問うと、
「そうだな、余生の生き方について絶えず問いを発し、その答えを探し続ける。もちろん、その答えが見つからないかも知れない。しかし、問い続け答えを探し続ける態度にこそ、人生の意味があるともいえるな」
わが輩は、そこで次のような駄句が浮かんだ。

「生き延びて含むビールの泡笑う」 敬鬼

徒然随想

ビールと人生の泡