お盆も過ぎたのに残暑がことのほか厳しい夕方、男あるじが庭に出てきた。手には例の徒然草をもっている。エアコンのほどよく効いた書斎で、うたた寝でもしながら読んでいて、はっと心に響く文言に出会ったのだろう。案の定、朗読し始めた。わが輩は、毛皮をまとっているし、汗腺がないので熱中症になりそうで、不快で仕方がない上に、なにやらお経のようなものを聞かされたのでは、不快指数も極限まであがってしまった。わずかにツクツクホウシの鳴き声が、その不快感を和らげてくれるが、そんなことには構わずに、男あるじは、濁声をはりあげて、五十九段を読み上げた。「大事を思ひ立たむ人は、避りがたく、心にかからむことの本意を遂げずしてさながら捨つべきなり。『しばし、この事はてて』、『おなじくはかのこと沙汰しおきて』、『しかしかの事、人の嘲やあらむ、行末難なくしたためもうけて』、『年来もあればこそあれ、そのことを待たむ。程あらじ。物さわがしからぬように』、など思はむには、えさらぬことのみいとどかさなりて、ことの尽くる限もなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう人を見るに、少しは心あるきはは、皆このあらましにてぞ一期はすぐめる」
  わが輩は、なんとなんく、この段でいわんとしていることが理解でき、おおいに賛同した。ここでは、「思い立ったら吉日、あらゆる口実を捨てて、大事に向かって邁進せよ。そうでないと、一生涯、大事を遂げることなんかできない」と兼好法師は警告しているようだ。男あるじも、わが輩の顔を覗き込み、得たりとばかり、
「そうか、この段の意味がお前にもわかるか。たいしたものだ。もっとも、ここでいう大事とは世を捨てて出家し仏道修行にはいることを意味しているが、生きていく上でのあらゆることに当てはまるぞ。だいたい、人は怠惰にできているので、達成するのに努力しなければならないこと、あるいは望まないがしなければならないことがあっても、なにやかや屁理屈をつけて先延ばしをする性癖がある。そのような屁理屈は際限なく思いつくので、結局はその人にとっての大事をおこなう機会は訪れない。いや、すぐそこに機会は訪れ、まったなしの状況なのに、先延ばしをしてしまう。これ心理的モラトリアムという。いわば、大事を執行するのに猶予をおいていのだな」としたり顔に解説した。そして、続けて、
「近き火などに逃ぐる人は、しばしとやいふ。身を助けむとすれば、恥を顧みず、財をも捨ててのがれさるぞかし。命は人を待つものかは。無常の来ることは、水火の攻めるよりも速やかに、のがれがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとてすてざらむや」と朗読した。 
 たしかに、津波や洪水のように水が押し寄せてきたり、大火となり猛火が迫ってきたりしたら、あれとこれとを始末してからなどと悠長なことは言っていられない。『津波てんでんこ』と言われるように、命からがら逃げ出すだろうな。男あるじも、
「まあ、そういうことだな。大水や大火は目に見えるので、その切迫性がよくわかる。でも、自分の死期は目に見えないので、まだ猶予があるだろうからと大事を先に延ばしてしまう。卑近な例だが、昔の友人に連絡を取って会ってみたいものだと思っていても、なんとなく気兼ねをしてお互いに会うのを先延ばししていたら、その友人の訃報に接して、臍をかむということを一度ならず経験をした。これなども、互いの死期を互いに知らないために起きた悔を後に残す事のひとつだ。すべからく、執行猶予せず、実行することが大切なことだ」と神妙に話を終えた。
  わが輩も、自分の最後がいつかはわからない。イヌは人間の6倍の速さで年をとるので、わが輩も人間に直せば古希を過ぎている。しかし、それは目に見えないし、また目に見えたら、それはそれで苦しいだろう。わが輩には、もともと大事を思い立つようなことは何一つ存在しない。一日、一時が大事だと思って生きている。言い方をかえれば、後も、先もない過ごし方といえようか。まあ、なるようにしかならないの精神でいるのが安穏だな。ケセラセラ(Que sera sera)、Whatever Will Be, Will Beだな。

「夕雲に 大事を知らす せみ法師」 敬鬼

徒然随想

-大事を思ひ立たむ