徒然随想

-団欒(だんらん)−
  この家の者たちが夕餉をとりはじめたようだが、何やら言い合っている。それとなく聞き耳を立てていると、ある新聞が最近の子どもたちの日常生活について調査をしたところ、朝食をひとりでとる小学6年生が21%に昇ると言うことを巡ってのようだ。21%といえば、5人に一人は朝食をひとりでとり学校に出かけていくことを意味する。
  吾輩なんぞ自慢ではないが、ひとりで朝食をとるなんて侘びしいことは考えたこともない。ときどき、この家の女あるじが寝坊をして出勤に間に合わないときなど、吾輩専用のトレーに好物の缶詰ビーフがのせてあっても、食べてやらないことにしている。一人で食べるとおいしいと感じられないから不思議だ。吾輩がもっとも好む食事スタイルは、この家の女あるじと娘が吾輩の側に寄って来て、何やら吾輩のことを話しながら、食べるときだ。もっとも、男あるじは何を食っているのかと覗き、吾輩にちょっかいを出すので敬遠だ。
  人間どもも、きっと一人で摂る食事なんぞ味気ないだろうになぜなのだろうか。朝食がこんな風では、きっと夕食もまともな食事になってはいないだろう。
  吾輩の辞書によれば、摂食と食事とは違う。摂食は栄養補給のために行うもの、食事は栄養を補給しながら、同時に親しい人同士で楽しい時を過ごすものである。病気で入院したときなど、ベッドの上で三度三度、食べさせられるが、これなぞは侘びしいものだ。もっとも、最近は回復期にある人は食堂で食事がとれるということで、きっと体力回復にも効果があるだろう。
食事は、団欒(だんらん)も兼ねている。団欒とは、人々が円く集まることをいう。吾輩犬族も、野生でいたときは、狼のように、リーダーを中心に円く集まって遠吠えをしたものだ。きっと、あれは楽しい一時だったのだろう。つまり、団欒は人々が車座になって楽しいひとときを過ごすことだったのだ。
  最近の人間どもは、この団欒を忘れかけているようだ。ひとつ屋根の下で生活をともにしていても、それぞれが勝手に食べ、風呂に入り、ひとりでテレビを見て、ひとりでベッドに入る。これでは、まるでホテルのようだ。いつもいつも行動をともにするのも気詰まりだろう。でも、朝と晩、あるいはそのいずれかで団欒の時をもつことは、人と人との間の絆をつなぐために、あるいは絆を強めるために大切では無かろうか。
  吾輩も、ひとりで放って置かれた時に食欲が湧かないのは、きっと、この家の者たちとの間の絆が解けそうで嫌なんだろうと愚考する。人間の子どもたちも、きっと、こんな寂しさを感じながら一人で摂食しているんだろうな。そのうちに親と子の間の絆がほどけてしまうんじゃないのかな。
  この家の者たちは、もともと、食事に対して卑しい位の欲がある。きっと、一日のうちでもっとも充実した時間と感じているのではないだろうか。とにかく、食事を楽しくすべく努力しているらしい。今夜の酒はワインか日本酒か、肉あるいは魚料理か、器はどれを使うか・・・・。
  もっとも、これだけが生き甲斐だと、これはこれで侘びしい限りだ。「人はパンのみにて生きるにあらず」ということについて聞いてみたいものだ。
  啄木の「一握の砂」という詩集には、母との食の一場面を切り取った次のような秀逸な詩がある。
「呆れたる母の言葉に
 気がつけば
 茶碗を箸(はし)もて敲(たた)きてありき」