正月の行事の最後には、「どんど焼き」があると、わが男あるじが唐突に言い出した。なんでも、正月飾りや注連縄を各家から持ち寄って、うずたかく積み上げて焼く行事のようだ。たいてい、田んぼとか神社で行われ、お餅なども焼かれるので子どもに人気があったそうだ。男あるじは、子ども時代を振り返って、「あれも楽しい行事だったな。今は新しい住宅団地に住んでいるので、どんど焼きなんてものは行われない。いや、どんど焼きどころか焚き火だって御法度だ。『かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよきたかぜぴいぷう ふいている さざんか さざんか さいたみち たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよしもやけ おててが もうかゆい こがらし こがらし さむいみち たきびだ たきびだ おちばたき あたろうかあたろうよそうだん しながら あるいてく』。焚き火は死語になったから、こんな童謡はもはや過去のものといってよい。もっとも、この辺の団地では灯油の引き売りを知らせる音楽には、これが使われ大音響で流されていて人迷惑だがね。皮肉なもので情緒もへったくれもないぞ。落ち葉は元々炭酸ガスを吸収して光合成されて成長したものだから、燃やしても炭酸ガスは差し引きゼロなのだけれども許されなく、燃やしてでもいれば環境問題に疎い者と白い目で見られる。いやはや、何おか言わんやだ。正月飾りも材料は稲わらだから、これも炭酸ガスの排出量は差し引きゼロのはずだ。でも、町中では無理だろう。おっと、どうも最近は愚痴っぽくなっていかん。そうそう、わがご幼少の頃は、正月15日に近くの神社でどんど焼きが行われるのが常であった。正月は15日までとなっているので、この日に行われた。小学校も昔はのんびりしていて、正月休みは15日までだったな。夏休みも海水浴など楽しいが、この冬休みもすごろく、たこ揚げ、かるた、花札そして雪遊びができて楽しい休みだったぞ」と語った。
 わが輩には、正月も、冬休みもないが、これが当てがい扶持で生きているものの辛いところ。だが、あるじ達が正月とか冬休みとかであると、やれ買い物だとか、やれスキーだとかするので、その影響を受けて毎日の生活のリズムが乱されるので困る。どんど焼きなんてものは、聞くところによれば、火祭りのようだから、こんなものはわが輩にはくわばらくわばらで、無くなってくれて助かるというものだ。
  こんなわが輩の気配を察知した男あるじは、
「動物は火を利用できない。道具を使う動物はチンパンジーあるいはカラスなんかでも確認されているし、道具を原始的に製作するチンパンジーもいるが、いまだ火を使う霊長類は存在しない。つまりだな、人間と動物を厳然と区別するものに火の利用があるのだよ。言葉の使用も人間固有のものだが、言葉を伝達の手段とすれば、ニホンザルでも三十種類以上にのぼる音声を用いているとも言われる。でも、これは危険を知らせたり、威嚇したりする信号にあたるもので、言語ではないのだ。言語には、現実世界のさまざまな物理的そして心理的対象を音声を組み合わせて任意に表現する働きがなければならない」と講釈しだした。 
  わが輩は、また始まったかと狸寝入りを決め込もうとしたが、男あるじは、それには頓着せず、次のように講釈を続けた。

「話がいろいろと飛んでいるが、どんど焼きに戻ると、火の利用は神聖な行いなのだ。フランスの哲学者 ガストン バシュラールは、『火の精神分析』を著し、人間が火に対して抱く心理的な思いや影響を思索している。それによれば、火は物質の中に宿るとともに、人間の心の中にも生きていて、楽園で輝いて善をもたらすとともに、地獄で燃えさかり悪をなすという。だから、火は人間にとって安らぎともなり、また人間を罰するものともなるのだな。
つまり、人間にとって火は畏怖すべきものということになる。どんど焼きも、災いを避け福を招く神聖な行事なのだよ」
 わが輩には、もともと火は畏怖すべき、いや恐怖すべきものだから異論はないが、しかし、人間という動物は、動物であるくせに火という神聖なものをよくも手なずけたものだと感心した。これも灰色の脳細胞のなせるわざなのだろうか。

「どんど焼き 顔は火照りて 背は寒し」 敬鬼


徒然随想

-どんど焼き-