徒然随想

原子力発電と認知的不協和
  連日の猛暑でわが輩も、もう夏ばて気味だ。そんな日の朝食のとき、女あるじと娘が何やら声高に話している。わが輩は朝寝のふりをして耳をそばだてていると、原発がどうの、節電がどうのといっているようだ。この国は、この3月に東北、東関東地方で未曾有の地震、津波、そして原子力発電所の爆発にみまわれた。その結果、どうやら電力が不足するようなのだ。わが輩は、かなり暑くても、縁の下に入いれば日陰もあるし、不思議に風通しもよいので、電力が不足してもいっこうにかまわないが、人間は毛皮に覆われてもいないのに、どうも暑さには弱いらしい。  
 女あるじは「原発は放射能をまき散らすような事故が完全には防げないので、廃止すべきじゃない。みんな、電気を使わない生活に戻ればいいのよ。暑くてもがまんがまん。欲しがりません、災害に克つまでは」と、精神力を強調したような言い方をしている。戦前の「欲しがりません、勝つまでは」をもじったようだ。古いな!
  娘は「生まれたときから電気があって便利な生活に慣れているんだから、いきなり戦前の生活スタイルに戻れといわれても、それは無理というものじゃない。大体、電気があるから生活が成り立ち、電気があるから産業が成り立ち、電気があるから電車が動くのよ。電気が無ければ、まさに、お先真っ暗だわ」と反論。
 そこへ、男あるじが上半身裸で2階から降りてきた。これでも、スーパークールビズのつもりらしい。でも、これじゃ、ハダカビズだ。見苦しいといったらない。その点、わが輩は、毛皮を身にまとっているので、夏毛にしさいすれば、これでクールビズになり、しかもちっとも見苦しくはない。人間というものは、この点で、はなはだ不便にできている動物のようだ。どうして、春夏秋冬をとおして便利な毛皮を捨ててしまったのだろう。 わが輩がこんなことを思っていることには気が付かず、男あるじは、
「ふぐは喰いたし、命は惜しし」とのたまわった。どうやら、原発をふぐに例えたようだ。原発は電力を大量に生み出し、正常に運転できれば環境への負荷も小さい。しかし、一旦、爆発事故を起こせば健康被害も大きく、農業、漁業、牧畜業に甚大な被害をもたらす。つまり毒があるということを言いたいらしい。
 男あるじは、「原発の利点と欠点とは認知的不協和にある」と続けた。どうやら、薀蓄(うんちく)を傾けたいらしい。
「つまりだ。人が二つの選択可能なもののうち、一つを選ぶことを決定したとすれば他の一つを捨てたこととなり、そこに不協和が生じるのだよ。原発をとれば大災害が起きるかも知れない。原発を廃止すれば電力が不足する。しかし、当面、どちらかを選択しなければならないというわけだ」
「この理論によれば、どちらかを選択決定後に生じる不協和の大きさは、決定の重要度が大きいほど、また選ばれなかったものの魅力が大きいほど、不協和は大きくなることが知られている。原発を存続しても、また廃止しても不協和は大変大きいと言えるね」と結んだ。
 なるほど、確かに、現在の日本全体がそんな不協和な状況にあるとわが輩は感じた。これに、それぞれの立場での利害が関わってくるので、問題が複雑になる。ますます、社会的ストレスが増大するな!合理的な社会的解は得られないのであろうか。

「生きのびてまた夏草の目にしみる」 徳田秋声