徒然随想

- 賀状のはじまり

 年の瀬も押し詰まり、残りの日数も3日となった。もちろん、吾輩には春夏秋冬はあるが、月日は必要ない暮らしをしているので、年の瀬といわれても何の感慨もわかない。男あるじの言うことを聞いていると、3日後には1歳分余計に歳を取るらしい。もう15年も生きてきたのかと思うと、かずかすの難儀なことに耐え、われながら頑張って生きてきたものだとつくづく感じ入った。 もう当たりは暗くなり始めたが、いっこうに男あるじの出てくる気配がない。おしっこもしたいし、寒い夕方の風も吹きだしたし、もう我慢ができないと思い切り何回も吠えてやった。
 ようやく、男あるじがお出ましになり、
「うるさいやつだ。もうちょっと我慢ができないのか。こんなに吠えたらご近所迷惑というものだ」と大声を出した。よっぽど感に障ったようだ。そこで、なにか用事でもあったのですかと問うと、
「年賀状を準備していたのだ。これが思うようにレイアウトできなくていらいらしていたら、おまえの吠え声だろう。ますますいらいらがつのった」とまくし立てた。吾輩は、素直に、
「そんなこととは露知らず、ごめんなさい」と首をうなだれた。男あるじは、これで腹の虫が少し治まったようで、
「年賀状には、今年の来し方を振り返り、来年の抱負を述べ、また相手先の来年の福を祈るように書くのだが、うまい表現がなかなか思い浮かばないし、添えたいと思うイラストも気に入らないというわけだ。ご無沙汰している知人に年に1回、近況と無事息災でいること伝えるのは大切なことだ」と散歩しながら話し出した。そして、
「ところでなんと、賀状の起源は7世紀後半には始まっていたらしい。あの有名な大化の改新が646年だから、それより少し後のことになる。もちろん、庶民の間ではなく貴族階級のなかで離れて所にいる人への年賀状だったようだな。平安後期になると、年始の挨拶を含む文例集が編まれてもいた。戦国時代にも戦国大名が賀詞を述べた書状も多く残されているようだぞ。さらに江戸期に入ると、武士階級だけでなく、庶民も年賀の書状を出していたという。明治20年前後になると、郵便制度が整備され「年賀状を出す」ということが広まって、国民の間に年中行事のひとつとなっていったそうだ」と結んだ。
 吾輩は、ガールフレンドに匂い付けをして、元気であることを知らせる努力は怠らないが、年始だからといってとくに匂い付けを強めることはない。吾輩ここに有りということがわかれば、それで十分だ。そんなことを男あるじに首を向けて訴えると、男あるじも、「おまえはご近所の犬友に伝われば住むが、われわれには遠い所に住む知人も多いのだ。そんな人には、まさか匂い付けで知らせるわけにはいくまいて。俳句にも、『待ちし一枚その中にあり年賀状』がある。黛まどかの作だ。たくさん来た賀状の中に待っていた一枚の賀状を見つけたときの嬉しい気持ちをさりげなく詠んでいる。きっと、その賀状は年に一回の賀状のやりとりしかしなくなった昔の、しかし大事な人からのものなのだろう。こういうものがあると、賀状は唯の儀礼ではなく、心のこもった年一回のやりとりということになるな」と話し終えた。

「柊や今年も3日余すのみ」 敬鬼