昨日と変わるところがないが、今日は人間たちはお屠蘇とかで朝から浮かれ気分だ。なんでも、新しい年になったそうだ。わが輩たちイヌの世界では、寒いか、気持ちよいか、あるいは暑いかしか暦はない。いわば、体感による暦といってよい。人間たちには、年、月、日と自然の時間を自分たちの都合の良いように区切って暦として利用している。それによれば、今日は、目出度くも年代わりというわけのようだ。 この家の男、女、そして娘あるじも目出度くも新しい年を健康で迎えた。もっとも、歳をとるのは人間もわが輩たちイヌも平等である。仲良く歳をとったことになる。まあ、それだけ、残された命が少なくなったというわけ。わが輩たちイヌの寿命は、十数余年と決められているので、寿命が八十余年もある人間の一年に較べると、おおよそ5.7倍も余計に歳をとることになる。われわれイヌたちは、人間のようにのんべんだらりんと細く長く生きるのではなく、太く短く生きなければならないのだ。
お雑煮とかを食べ終わった家の者たちが、わが輩のところへもやってきて、口々に、
「クウちゃん、明けましておめでとう」と挨拶した。わが輩には、年が明けると何がおめでたいのか、とんと分からないので、それとなく眼で問うと、女あるじが、
「これはね、クウちゃん、去年まで生かされていたことを感謝し、新しい年も無事でありますようにお願いするという意味なのよ。歳をとることは、残された命が少なくなるという引き算ではなく、これまでの命に新たな一年が加えられたという足し算で考えることなのよ。『門松や冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし』と詠んだのは一休禅師だけれども、ここでも、『目出度くもあり目出度くもなし』といっているよね。これは、命を引き算すると目出度くないし、足し算で考えると目出度いといっているのだと思うわ」と、めずらしく理路整然と話した。このような算数は得意らしい。もっとも、算数で処理できない複雑な人間の心の機微になると、自己の感情と狭い経験に基づいた自己中心的な考え方を押し通すので始末に悪いようだ。
わが輩は、命に関する足し算的な考え方に共感するところ大である。こう考えれば、イヌたちの命が人間の5.7倍も速く進むとひがむことはない。新たな一年が加算されたと考えればよいのだ。この問答を聞いていた男あるじは、
「これは、心の持ち方の問題でもあるな。病気に罹り、残された命の日数が少なくなった人でも、この足し算の考え方によれば、まだ1日命が加わったと考えることができる。この方が、後何日しか生きられないと思うよりも、はるかに積極的に生に向かえる。あの子規先生も、最後の年の元日を『大三十日愚なり元日猶愚也』と詠んだ。これは自分の顔を写真で見て、大晦日も元日も変わらずに愚かな顔をしているなと吟じたものとされている。子規は、この句の1年9月後に亡くなるので残された余命はわずかだったが、それでも己を愚と詠じて、さらなる精進を期したのだと思う」と話すともなくつぶやいた。
「元日や新たに挑まんこの一年」 敬鬼