朝、散歩から帰ると、公園の角に登校する子どもたちが三々五々集まってくる。集団登校のためだ。数年前には3人くらいしか子どもが集まらなかったが、最近は増えて8人になっていた。吾輩の住む団地は、開発されてから45年は立つので住人は男あるじや女あるじのように70歳代の人たちばかりだ。だから、小学校に通う子どもは、その人たちの孫に当たる世代となる。でも、第一世代の子どもたちの多くは成人すると、仕事の関係で遠くに住んでいるので、三世代同居は稀だ。この家でも息子は結婚し、孫が一人いるが遠くにいるのでたまにしか帰らない。では、どうして子どもたちが増えたのだろうか、と男あるじを見やると、「ふむふむ、それはだな、不動産業者によって空き家の土地が買い取られ、1軒だったところに工夫して新たに2軒の家が建てられて若い夫婦が入居したからだな。それらの夫婦には1人ないし2人の子どもがいる。3人の子持ちの家もあるぞ。こんなことがここ二・三年で、この近所で起きたからだな」と答えた。
 確かに、散歩していると空き家がつぶされ更地になっているところも目に付く。そんなところもしばらくすると家が新築され、きまって若い夫婦が入居する。居住地の新陳代謝といったところのようだ。もっとも吾輩が住むところの近所には、もう十数年も空き家で雑草が茂り放題の所もある。この辺は通勤にも便利だし、学校も近いし、買い物にも直ぐ近くに大型スーパーがあるから、売り出せばすぐに買い手が付くだろうに、と老爺心にもおもわずにはいられない。
 集まってくる子どもたちのなかにはイヌ好きがいて、きまって吾輩の背中を撫でる。一人が撫でると、他の子どもたちもまねをして、はじめはおそるおそるに、そのうちに背中ばかりではなくしっぽを触ったりする。吾輩は、どこを触られても眼を閉じ知らん顔をしてなすがままにさせる。こうすると子どもたちも安心して皆が集まるまで吾輩の周りで、撫でたり、しゃべったり、捕まえてあるダンゴムシを見せたりして過ごす。男あるじも、小さい子どもが好きなようでいつまでも、子どもの相手をし、咲いている花の名前を教えたり、虫の話をしたり、学校生活について聞いたりしている。
「小さな子どもたちが近所にいると活気があるな。公園で遊ぶ子どもの声をうるさがる人もいるが、これはこれで微笑ましい。子どもはまさに『遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ』と梁塵秘抄にも詠われた存在だからな。うるさがる大人たちも、自分たちが子どもの頃どのくらい大きな声で遊んでいたかを思い出してほしいものだ。じりじりと太陽が照りつける午後、元気な子どもの声が響くので、盛夏も楽しく過ごせるというものだ。もっとも、お前の吠え声はいかん。何を訴えているのか知らんが、あれは騒音だからな」と吾輩は睨んだ。吾輩は、
「何を言うか。あの吠え声を騒音にしか聞こえないのは、吾輩の吠え声を理解しようとしないからだ。暑くてやりきれないとか、喉が渇いたのに水が飲めないとか、そろそろ散歩に出ようとか、あるいはもう家に入れてほしいとか、つまり騒音にあらずして気持ちや欲求を訴えている訴音なのだ。音は聞く人の心の持ちようで騒音になったり、音楽になったりするのではありませんか」と眼で訴えた。男あるじは、
「何を言うか、音源こそ問題なんだぞ。吠えるにしても飼い主を強要するような音は逆効果になる。おまえの吠え声をなんでも受け入れるのは、お前に甘い女あるじだけだ」と吾輩のリードを引っ張った。いつのまにか子どもたちは登校していなくなっていた。

「夏至の陽に子らの呼び声響きたり」 敬鬼

- 夏至の陽と子どもたち

徒然随想