寒い日が続いた後の小春日和は至福の時だ。太陽の射す光は、わが輩の身体も心も温めてくれる。全身が弛緩し、そして眠気がやってくる。時々、片雲が陽を遮ると急に身体がぞくっとなる。冬日、太陽はまことに有り難きかなである。 こんな至福の時を妨げるもの、それは男あるじである。わざと影を造り、陽を遮ってわが輩にちょっかいを出す。そして、何やら訳の分からない話をするので、うつらうつらとしながら、右の耳から左の耳へと聞き流す。今朝はいきなり、俳句がどうのこうのと話し出した。最近、男あるじは敬鬼とか勝手に称して俳句らしきものを詠むようだ。初孫が生まれたときには、『まあこれが 孫のお顔か 菊薫る』と詠み、悦に入っていた。自分では秀作だとおもっているらしい。あの有名な一茶を真似たものであるが、それでも初孫にこの世で初めて対面したときの言うに言われぬ感動を詠んだと言うことらしい。
「まあ、そういうことだ。おまえにも伝わるものが詠まれているようだから、この句はそれで良い句といえそうだ」と男あるじは自画自賛する。そして、続けて
「俳句は折々の情景を詠いながら、己の心象をそこに表現する短い詩といってよい。俳句では季語を必ず句の中に織り込む。これは季節ごとに決められた言葉を句の中で用いることによって、誰もがこの句は春を詠っているということを分からせるためである。誰もが知っている芭蕉の『古池や蛙飛び込む水の音』の季語は、蛙であり、季節は春であることを指し示する。季節は春、ようやく暖かくなり、蛙たちも活発に動くようになってきた。そんな時節、小さな古い池があり、蛙が水の中にいましがた飛び込み、その水音が静寂の中で響いた、というのがこの句の情景である。とりたててどうこういうことのない情景であるが、静寂の中で、それを破る水音がしたことに風雅を感じて詠まれたものであろう」と講釈を始めた。さらに、
「俳句は、もともとおかしみ、すなわち滑稽を伝えるものであったそうだ。たとえば、一茶の『やれ打つな蝿が手をする足をする』という句は、いま、まさにはえ叩きで打たれそうになった蝿が、手を擦り足を擦り命乞いをしていることよと詠んでいる。本当は、蝿は命乞いをしているのではなく、叩かれることにさえ気づかずに手や足の汚れを落としているだけなのに、一茶から見るとまるで命乞いをしているように見える。そのおかしみをこの句は表現しているといってよい」
 なるほど、たしかに俳句にはおかしみが似合うなとわが輩は感じた。『雀の子そこのけそこのけお馬が通る』も一茶のくだったな。ここでは『道に遊んでいるすずめの子よ、そこを早くのけよ。お馬が通るからあぶないぞ』といっているし、『やせ蛙まけるな一茶これにあり』では、『かえるがけんかをしている。やせた蛙、負けるなよ。わたしが応援しているぞ』と痩せた方の蛙を励ましていたな。
 そういうことだな、と男あるじはしたり顔で頷いた。そして、
「『われと来て遊べや親のない雀』も一茶の句なのだ。ここでは『親のない雀が一羽ぽつんとしているのを見て、こちらにきて一緒に遊ぼう』と呼びかけている。一茶も親には遊んでもらえなかった寂しさを雀の子に投影し、手をさしのべている。一茶の弱いものに対する慈しみがこの句にもよく表されている」と結んだ。
 なるほど、俳句は日本独特の短詞であると言われているが、五七五の十七文字のなかは、大きな宇宙が形成されているのだなとわが輩は感心した。

「冬陽陰り 微睡む犬を くしゃみさせ」 敬鬼

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