日中は暑さが残っているが、朝晩は涼しさが増してきたようだ。子どもたちの夏休みも終わり、新学期が始まったので、朝早くからランドセルを背負って学校に通う姿が戻ってきた。子どもの通学風景は、日常性の確かさを感じさせ、わが輩も安心するひとときだ。もし何か災害が起こって、子どもたちの通学が妨げられたら、これは大人にとっても、わが輩イヌ族にとっても一大事だろう。さいわいに、今夏は、わが庵を結ぶこの地域には、台風の襲来もなく、穏やかな新学期を迎えた。
  朝の散歩から帰り、おきまりの朝食をとり、子どもたちの声を枕に一寝入りしようとしていたら、女あるじが洗濯物を抱えて庭に出てきた。そして、
「心地よい風が吹く季節になったわね。初秋のおもむきといってもいいね。そろそろ、ススキも穂を出し、萩の花も咲くわね。クウちゃんも気持ちがよいでしょう。処暑の後のこんな季節を白露というんだよ。まあ、露が降りる頃といった意味らしいわ。もっとも、夜は気温が下がるので、露が降りるが、露で白くなるほどではないわね。でも、猛暑だった季節がようやく過ぎ、秋の趣がひとしお感じられるのは確かだわね」とつぶやきながら、洗濯物を干し出した。
  わが輩は、この時期を白露とよぶことを初めて知ったので、わが庵の前の芝生を舐めてみたところ、なんとなく湿り気が感じられた。きっと、夜中に湿った大気が冷やされて露が貯まったのだろう。そういえば、もうじき秋分だ。今年も残りが4ヶ月弱となったのだな。月日は情け容赦なく回っているのだと柄にもなく感傷的になった。そこへ、男あるじも出てきて、
「風立ちぬ、いざ生きめやも。どうだ、良い言葉だろう。この季節にぴったりだな。これは、ポール・ヴァレリーの詩の一節を、堀辰雄が訳したもので、小説『風立ちぬ』のなかで引用されて有名となった。小説は、昭和11年に発表された。重い病(結核)に冒されている婚約者との交わりの中で、生と死をみつめ、生を問い、死を問うた作品である。『風立ちぬ、いざ生きめやも』のなかの風とは、死の不安のなかにいる恋人たちに、風が吹いてきたことを感じさせ、その瞬間に強く生きることを自覚させる自然の力を表しているといわれているな」と解説した。
  わが輩も、風が吹いたことと生きようということがどのように関係しているかが不明だったが、男あるじの解説を聞いてなるほどと納得した。深く考えなくても、この『風立ちぬ、いざ生きめやも』のフレーズは、美しいと思う。悩める者も、風が吹いてきたな、さあ、それでは前に向かって進んでいこうと思わせる力が、このフレーズにはあるようだ。女あるじも、「ほんとにそうだわ。風には不思議な力があるわ。大地の息吹とでも言って良いかも知れない何か大きな力を感じるからだと思うわ。その大きな力が私を後押しし、前に進ませるのね。『風立ちぬ、いざ生きめやも』、ほんとに美しいことばだわ」とつぶやき、洗濯物を干し終わった。
  今朝は、いやに感傷的な時を過ごしたものだと、わが輩は軽くあくびをして、朝寝を決め込んだ。これも、秋風がなせるわざなのだろう。

「秋風か 窓辺に移り 朝餉する」 敬鬼

徒然随想

-白露