9月に入り6日が過ぎた。例年は残暑が厳しく、学校で秋学期が始まっても子どもたちは汗だくで授業を受けていたが、今年は早々と秋雨前線が日本列島に滞在し、長雨を降らしていると男あるじが話していた。吾輩は、雨が降ると家の中に閉じ込められるので気がふさぐ。今日もしとしとと夜明けから降り続いている。稲穂の実る時期なのに、こう雨が降り続くのでは影響は避けられないだろう。女あるじも、
「お野菜が値上がりして大変だわ。胡瓜、キャベツ、茄子、レタスのお高いこと」とこぼしていた。
 吾輩は野菜は食さないのでどうでもよいが、でもこの家の者は健康維持と便通維持のために野菜は欠かせないので、値上がりはふところにひびくらしい。そこへ男あるじがやってきて、
「今頃のことを白露という。これも二十四節句のひとつだ。これが過ぎると秋分の日、お彼岸と言うことになる。白露というのは草の葉に白い露が結ぶという意味だ。日中は気温が上がるが、朝方は冷えてくるので草花に朝露が宿ることから名づけられた」と解説しだした。
 吾輩も、
「朝方の公園の散歩では草花が濡れていますね。朝露が落ちているんですな」と応じたら、男あるじは、
「そうだ、それが白露だ。月の光に白く光って見えるので白い露と呼ぶ。冷涼な季節感を表している」と答えた。そして、
「『白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬき留めぬ 玉ぞ散りける』。これは百人一首の出てくる文屋朝康の和歌だ。草の葉の露は、まるで紐で貫いたようにひとつなぎに連なっているが、いま吹き付けてきた一陣の秋の風になんとまあ散らされてしまっていることだと詠んでいる。眼前の光景を見たままに詠じているが、見事な表現力といえるな。『白露や芋の畠の天の川』。これは正岡子規の俳句だ。白露の季節になると、さつまいもが実る。サツマイモの葉は密集して茂るので露をたっぷりと含んで月に照らされて光り、その上には天の川がかかっている。いもの露と天の川が醸し出す冷涼な世界が目に浮かぶようだな」と話を続けた。
 女あるじもそれを聞いていて、
「いまは地上の明かりのために天の川ははっきりしないが、きっと子規が生きていた明治の時代には、いもの露と張り合うくらいに光って見えたのでしょうね。これからは、萩が咲き、すすきが穂を出し、そして曼珠沙華が赤い花をつけるでしょう。そうそう、お月見も良いわね。今年こそ、お萩といなり寿司をつくって楽しみましょう。ねえ、クウちゃん。クウちゃんにもきっと最後のお月見になるかもしれないから」と吾輩を見た。
「なにおか言わんやだ。なにが最後だ。吾輩はまだまだ生きるつもりでいるのだぞ。多少足腰は萎えたが、でも頭はクリヤーだ。おしっこも、うんちもちゃんと外ですることができる。食欲もまあまあだ」と女あるじを睨んだ。
 女あるじは、言い過ぎたと感じて吾輩の頭を撫でに来た。つねづね思っていることが声に出てしまったらしい。これも、吾輩を心配してのこととなので許してやることにして、おとなしく頭を撫でさせた。

「味噌汁の湯気ほのかなり白露かな」 敬鬼

- 白露

徒然随想