今年の2月は寒かった。その埋め合わせか、3月は例年よりも暖かい日が続き、わが庵から見える公園の桜もちらほらと咲き始めた。明日はお彼岸だ。ようやく春が訪れたようだ。もっとも、昨晩は春の嵐がゴーゴーと吹き荒れ、さすがのわが輩も寝付けなかった。それでも今朝は一転して風もおさまり、暖かな陽光がさんさんとわが縁にもふりそそいでいる。身体の中からじわりと温もり、とろけていきそうだ。 こんな気持ちの良い朝の時間を過ごしていたら、男あるじが、
「春が来た、春が来た、どこに来た、山に来た、里に来た、野にも来た、わが家にも来た。わが庵にも来た」と浮かれて庭に出てきた。わが輩は、相手にならないように首をふところに深く入れて寝入っているふりをしたいたら、男あるじはわが輩のしっぽを踏んづけた。わが輩はおどろいて飛び上がり、一声吠えてやったら、
「頭隠して尻尾隠さずだな、そうかそうか、狸寝入りならぬイヌ寝入りだったか。春が来たのだぞ、よくも寝てばかりいられるものだ。こんな良い日はめったにないのだぞ」と、顔をお日様に向け口をあんぐりと開けて悦に入った。そして、続けて、
「いま口ずさんだのは『春が来た』という唱歌だ。二番の歌詞は『花がさく 花がさく どこにさく 山にさく 里にさく 野にもさく』と続き、三番は『鳥がなく 鳥がなく どこでなく 山でなく 里でなく 野でもなく』と結ぶ。春は花の季節、春は鳥の季節でもあり、こんな短い歌詞の中に春が豊に情感をもって表現されている。詠んだのは高野辰之という人だ」と話した。
  わが輩も「春が来た」は単純なフレーズが繰り返されているだけだが、しかし春の訪れを余すところ無く簡潔に表現していて歌いやすい。しかし「わんわん、フィーフィーン」のイヌ語ではしょせん歌えないので、男あるじの口ずさみにも唱和できなくもっぱら聞き役に徹することにした。
「高野辰之という人は、長野県の中野市の出身だ。1876年(明治9年)の生まれで、長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)を出て、東京帝国大学で国文学を専攻した。本業は学者だ。1910年から東京音楽学校教授を努めた。学者としても名をなし、日本学士院賞を受賞してもいる。高野を有名にしたのは本業の業績のほかに、唱歌の作詞があった。たとえば、あの誰もがしっている『兎   追いしかの山小鮒   釣りしかの川・・・・・』、そう、おまえも知っている『故郷』がある。まだまだあるぞ、『朧月夜』、『春の小川』、『もみじ』も作詞した。春あるいは秋の季節の訪れを情緒豊かに綴っている。言葉の技巧をするのではなく、いわば子どもが素直に作ったような簡明さが、逆に豊かな季節感を立ち上らせているな。国文学者だから、もっと言葉のレトリックを駆使してもよさそうなものだが、それを排して情景をありのままに言葉で写生したところが多くの人の共感を呼ぶ。これらの唱歌の作曲者はいずれも岡野貞一である。この人は、鳥取市の出身で、1906年に東京音楽学校の声楽の助教授になっているので、ほぼ同じ時期に同僚だったことになる」と語り終えた。
  わが輩は、日本の春を歌った名曲がいずれも地方の出身者によって作詞、作曲されていたことを聞き、諾なるかなと思った。子どもの多感な時期に接したふるさとの春の情景が下地となっていたのだろう。わが輩も、およばずながら「フィーン、フィッフィーン、フィーン」と歌ったら、男あるじは「なにしょっべんか」と聞き間違えたので、また一声吠えてやった。

「木蓮花 春を吹き出す 踊りかな」

徒然随想

-春が来た