春は昼も良いが夜も捨ててはおけない。もっとも近所のネコたちの異性相手に叫ぶ鳴き声さえなければもっと気持ちがよい。今宵はやさしい肌をなぜる風と言い、春霞を通してぼんやりと輝く月なども風趣がある。この季節、吾輩はいつもの庵のなかで丸くなり、うつらうつらと寝入るまでの一時を楽しむ。夜は冬のように暗く寂しくなるのではなく、暗闇の中でも花々が薄明るく周囲を照らし、吾輩の敏感な嗅覚を甘く刺激するので官能的でもある。
 男あるじも、こんな春の宵でも楽しもうと庭に出てきた。そして、周囲を見回し、大きく息を吸った。官能的な花の匂いを嗅いだようだ。
「うん、これは沈丁花だな。この匂いは甘く鼻孔を刺激する。隣の庭に生えている沈丁花がここまで匂ってくるのだな。でもこの家の家人はいまはグループホームに入ってしまい、誰もいない。その隣も、またその隣も空き家だ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年年歳々人同じからず。これはこれでどうしようもないこととはいえ寂しい限りだ」と殊勝げにつぶやいた。
 吾輩も後期高齢犬なので、これには身につまされる。いや、だからこそ、今年の春の宵を満喫したい気分だ。きっと、後期高齢者間近の男あるじも同じ気分なのだろう。庭に置かれた椅子にすわりながら、感傷的になっていると、女あるじも台所が一段落したようで、庭に出てきてもう一つの椅子にすわりながら、
「気持ちの良い春の宵だわ。月も星もおぼろに輝き、良い匂いもするわね。この季節は蚊もでないのでゆっくりと過ごせるし、静かなんだけれどもなぜか浮き立つようでもあるわね」としゃべった。
 男あるじは、
「寝るのは惜しいこんな春の宵を詠んだ俳句がある。『春の夜のわれをよろこび歩きたり』。われをよろこぶとは秀逸な表現だ。春の生暖かい夜にあてどもなく歩きまわると、身体全体に喜びが溢れてくるようだと詠んだのだろう。『春の宵妻のゆあみの音きこゆ』という句もある。いつもの妻の入浴なのに、春の宵にはそれがことのほかなまめかしいというわけだ。この2句はいずれも日野草城のものだ。この俳人は、「ホトトギス」除名後、エロティシズムや無季の句をつくり、新興俳句を訴えた。客観写生、花鳥諷詠とは相容れない俳句思想をもっていた。人間味があり、俳句にも共感できる」と話した。
 女あるじも、「人間味が感じられて良い句だわ。もっとも花鳥風月を巧みに詠む句も、その句の背後に人間の感慨が潜んでいて、ただ端に自然だけを歌っているのではないわね。虚子の句に『流れ行く大根の葉の早さかな』というのがあるわね。これなんかは川面を見ていたら大根の葉が一枚流れていった。見る間に遠ざかってしまった。これは客観写生俳句だけれども、流れゆく大根の葉は自分自身かもしれないし、人間一般かも知れない。うかうかしていると人生の河に流されてしまう」と珍しく男あるじの話にのってしゃべった。
 吾輩は、おぼろ月夜のこの春の宵をどう表現すればしっくりとくるのかは分からないが、でもこの気持ちの良い宵の満喫したいとは思う。吾輩の感じていることを表現し伝えられないのが残念だ。そこで、「ウーウーウーワンワン」と月に向かって吠えた。通じたかな。

「春の宵風の流れの芳しき」敬鬼

徒然随想

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