暖かくなると気分もそぞろ浮き浮きしてくる。若いときほどではないが身体も心も軽やかに感じる。男あるじも、吾輩と同じだとみえて所作がなんとなく軽やかだ。人間も古希を迎えても春ともなると浮かれたくなるらしい。そういえば、朝方は猫がうるさく鳴いていたな。猫も精一杯に吾が思いを相手に伝えようとしているのだろう。もっともあまりにうるさいので、一声吠えてやったら場所を変えてまた「アーウー、キャーギャー」とやっていた。 そこへ朝のお日さまを心地よげに浴びながら男あるじが庭にお出ましになり、
「朝方は猫の発情恋歌でうるさかったな。でも、これが聞こえるようになると春間近という感じだな。そういえば、白梅も紅梅も咲き出した。もじきひな祭りだし、猫の恋歌もまんざらではないな」とつぶやきだした。
 吾輩も、愛しのメグちゃんと恋歌ならぬ恋匂いを交わしたいものだが、深窓の令嬢なのでめったに姿を現さない。暖かくなってきたのでそろそろ朝の散歩にも出てくるはずと、期待しながら公園からメグちゃんの来る方へそれとなく鼻先をむけるが、いっこうにそれらしい匂いが感じられない。
 男あるじは、
「そういえば万葉集にも春相聞というものがあったな。相聞とは男女が交わす恋歌をいう。春に歌ったものは春相聞、夏のそれは夏相聞という」というと、あわてて家の中に入り、またあたふたと吾輩のもとに戻ってきた。そして、
「我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む」と本を見ながら読み上げた、いや朗々と歌った。もっとも本人は歌ったつもりだが、吾輩にはどなっているようにしか聞こえなかった。
「これは万葉集第八の春相聞歌に出てくる大伴家持の詠んだものだ。大伴家持は8世紀の中納言で万葉集を編纂した歌人の一人と言われている。万葉集に出てくる和歌も多い。我が庭に蒔いたなでしこはいつになったら花をつけるのか、貴女だと思ってその花を眺めたいのに、という意味だな。まだ歌人としては若い頃のものだろうか、素直にたんたんと詠じている。これは家持16歳ころに詠んだ歌だぞ。もっとも、当時すでに家持は妻帯していて、このなでしこの君は妻のことらしい。妻は坂上郎女で、この女人は同じ巻の春相聞で、『心ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは』と詠んだ。この歌は、なんとも心苦しいものです、春霞のたなびくこの季節に恋心がつのるのは、という意味なので、若くしかも情熱的な心情の吐露した歌といえる。」と解説した。
 吾輩は、万葉の時代と言えば、いまから千数百年も前のことになる。その時代に恋愛歌が歌われていたのにびっくりした。もっともそんなことができたのは貴族など上流階級に限られるようだが、それにしても風雅だな。現代では若い男女が、スマートフォンでメールのやりとりをしても、自分の思いをなでしこや春霞に託すなんて優雅なことは思いつきもしないな。いまどきの人間、とくに若者は、梅が咲こうが、木蓮が咲こうがいっこうに気にも留めないらしい。ましてや、それらに自分の切ない思いを託すなんて思いも及ばないのだろう。もっとも、吾輩も男あるじに似て、花より団子のくちなので、愛しい君のい匂いしか関心が無いので大きな事は言えない。

「あけぼのや眠りを覚ます猫の恋」 敬鬼

 

徒然随想

- 春相聞