「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みじゃないか あかねだすきに菅の笠」と男あるじが濁声をはりあげてやってきた。わが輩は、八十八夜はとうにすぎたけれども、と訝ると、
「それはそうだ。八十八夜は、立春を第1日目として88日目のことをいう。通常は52日になり、閏年は53日になる」と答えた。
 そこで、わが輩はなんでこんな唱歌を歌うのですかと目でそれとなく伺うと、
「野にも山にも若葉茂る良い季節をこの唱歌に託したのだ。散歩でも下ばかり向いていないで山をみてみろ。新緑に覆われた山は、まるでお山が笑っているように感じられる。私は、静岡で30年ほど暮らしたが、この時期には一斉に茶摘みをする風景、なかでもお茶の新芽はそれはそれは新緑色そのものでよいものだ。いまでこそ、電気バリカンの親分のようなもので機械摘みをするが、手で丁寧に摘む農家も少なからずある。まさにあかねだすきに菅の笠の光景がそこにはある。静岡地方の方言で、『みるい』という言い方がある。おもにお茶の新芽について柔らかくてみずみずしいという意味で使う。『お茶を みるい うちにつむ』というふうに言い、これは『お茶を柔らかいうちに摘む』という意味になる。もっとも、これが変じて未熟だという意味にもなる。たとえば、『あのひと まーだまーだ みるいな』は『あの人はまだまだ未熟だなあ』となる」
  ここでわが輩は顔を背けた。というのも、男あるじはわが輩に向かって「まーだまーだみるいな」といいそうだったからだ。もっとも、わが輩はそれをそっくり男あるじに返してやりたかったが、それを察したのか、口元をわずかに歪めただけで別の話題に移っていった。
「このゴールデンウイークは意外と寒い日があったな。お茶の新芽の大敵は霜だ。もっともお茶ばかりでなく葉っぱ類の野菜はすべてそうだ。霜が降りると新芽はみるいどころか茶色っぽく変色してしまい、お茶っ葉としては使えなくなる。これは陽が出て霜が蒸発するときにお茶の葉の表面を焼いてしまうからだな」と解説を始めた。
  わが輩はお茶をたしなまない。いつだったか、なにやら薄茶色の液体が水皿に入っていたのでなにかと舐めたことがあったが、苦くて飲めなかった。どうもお茶だったらしい。甘くもないものを人間がなんでおいしいと言って飲むのかまったく理解しがたい。「お茶は何と言っても一番茶がもっともおいしい。冬の間に蓄えたテアニン、これはお茶のうまみ成分なのだが、たっぷりと葉に蓄えられているからだ。お茶の渋み成分であるカテキンもたっぷりとある。お茶農家には遅霜への用心は怠られない。『八十八夜の泣き霜』といって用心している。また『八十八夜の別れ霜』などといわれるように、この時期を過ぎると遅霜の発生は少なくなる。東名高速道路の牧ノ原サービスエリアの周辺には、富士山を東にみて広いお茶畑がどこまでも広がり眼を見張るような景色だが、そこには背の高い扇風機がいくつも付いているのを目にする。いくぶん景観を損ねるが、これは遅霜対策のためなのだ。夜、遅霜予報が出ると扇風機を回して空気を攪乱し、霜よけにするのだそうだ。この扇風機は防霜ファンと呼ばれる」と男あるじは一息ついた。
  わが輩は、『お茶の子さいさい』、『お茶を濁す』、『お茶を挽く』など、良いことには例えられないが、しかしきっと味わいのある飲み物かも知れないと思った。もっとも、これらの格言はお茶そのものを難じてはいないらしい。もっともわが輩は正確には知らないので、このあたりでお茶を濁したい。

「一番茶 服せば和み 山笑う」 敬鬼

徒然随想

-八十八夜