この家の男、女、娘あるじは、大のドラゴンズファンである。ペナントレースが優勝、クライマックスシリーズも勝ち抜き、いよいよ、日本シリーズなので連日、騒がしいと言ったら無い。わが輩にはどのチームが勝とうが負けようが関係ないことだ。人間どもが、なんで、ああも贔屓(ひいき)のチームに肩入れし、興奮したり、落胆したりで、わが輩には訳がわからん。ドラゴンズの勝ち負けと、この家の利害とはまったく無関係なのに。こんなことを、とつおいつ考えていた夕方、男あるじが散歩のためにやってきた。そして、
「たしかに、贔屓チームの勝ち負けと我が家計とは関係ないといえる。もっとも、優勝セールで出物をゲットすれば別だ。いずれにしても、ドラゴンズを贔屓するのは、他から頼まれたわけではない、まったく自発的な行為だ」と話し出した。やれやれ、いつになったら、散歩にゆけることか。そんなことにはお構いなく男あるじは、
「誰でも自分の気に入った者や集団に対して肩入れし、援助したいと思っている。肩入れしている理由は、郷土のチームだから、イケメンだから、強いからなど、なんでもよいのだ。つまり、贔屓の理由は得手勝手なもので、不透明で、公平ではなく、独断的である。だから、贔屓はしばしば、依怙贔屓(えこひいき)として使われる。もっとも、プロ野球やJリーグのサッカーチームを応援するのは、贔屓のチームを決めて応援した方が、興味が倍加するという点にもある。もし贔屓のチームがなければ、どちらが勝とうが負けようがまったく自分には無関係なので、興奮のしようがない。でも、贔屓のチームがあれば、勝ったときには翌日の新聞のスポーツ欄を開くのが楽しいし、負ければTVのスポーツニュースも見たくなくなる。我ながら不思議な心の働きだと思うよ。きっと贔屓というのは身内意識につながっているのだろう」と続けた。 わが輩にも、もちろん、贔屓はある。近所のイヌ仲間でも気が合うやつと、道で出会っただけでうなり声を発してしまうやつといる。気が合うものは同性だろうと異性だろうと、不思議なことに、吠え合うこともなく、じゃれ合うことができる。だから、男あるじの贔屓、いや依怙贔屓感情もわかるというものだ。男あるじは、わが輩の思いにはまったく無頓着に「チームをまるごと贔屓する、つまりファンになるのだが、なかでも贔屓する選手や監督、コーチがいる場合もある。ドラゴンズの監督は、無愛想だの、サービス精神が欠けるだの、オレ流と称して独善的だの、といった評判が立っているが、しかし監督としての実績は立派なものだ。8年間で4回のリーグ優勝、1回の日本シリーズ優勝を成し遂げたからだ。この監督を贔屓にするものもあれば、そうでない者もある。贔屓というのは、好悪の感情だから、理屈ではない。贔屓というのは、3つの心理的成分で決められるということを知っているか。それらは、ある事柄、例えばドラゴンズというチームあるいはその一員に対して、『好ましい、好ましくない(感情成分)』、『良い、悪い(認知成分)』、そして『自分も応援してみたい、自分にはできない(行動成分)』といった3成分に対して、ある人が首尾一貫してポジティブであれば、そのチームを贔屓していることになるし、もし首尾一貫してネガティブななら、贔屓していないことになるのだな」と長講釈をした。
 うーん、まいったな。元大学教授は講釈が長いので困る。しかし、これは一理ありそうだ。近所のピーコちゃんに対しては、『なんと好ましい美形なのだろう』と会うとわくわくするし、『優しくて行動も優雅で、きっと良いイヌなんだろうな』と見ているし、『いつでも一緒にいたい』と繋がれていなければ飛んでいきたいと望んでいるのだから、感情、認知、行動の3つの成分がポジティブで一貫している。つまり、ピーコちゃんに対しては、贔屓の態度をもっているといってよいはずだ。心理学なんて、屁理屈をこねてばかりいるものとみていたが、ある程度は科学的なものと言えるようだ。もっとも、わが輩の心をばったばったと切り分けられても閉口する。まあ、切り分けるのがもともと単細胞な我が男あるじなので、いま流行のプロファイリングとはならないだろうけれども。

「決戦の秋 隣はどれを 贔屓する」 敬鬼

徒然随想

     −贔屓(ひいき)とファン