わが輩は、今朝もお日様を背に浴びて、 
「本日は絶好の昼寝日和だなぁー」と背伸びをしながら、遅い食事を取っていると、そこへ、男あるじがやってきた。
「昼寝の前の朝食か、いや昼寝じゃなく朝寝の前の、と言いかえた方が正確だな。それにしても寝てばかりいて何か刺激を求めるとか、志を立てるとかないのか。大体、退屈するだろう」と、とげを含んだ言い方をする。わが輩は、
「それこそ、大きなお世話だ、ほっといてくれ」と眼で抗議をし、そっぽをむいた。男あるじは、したり顔に
「そういえば、古代のギリシャには樽の中の哲学者と呼ばれていた人たちがいたというぞ。おまえもそれをまねしているのか。馬鹿だな、悟りをひらいて昼寝をして過ごすのと、そのときの気分や感覚にまかせて寝ているのはみそとくそ、豆腐と石頭、金と鉛ほど違うのだぞ」という。
わが輩は、男あるじの変な言い回しより、樽の中の哲人ということばにひっかかった。これは、何だろう。すると、それを察したのか、
「樽の中の哲学者というのは、大金持ちになろう、社長になろう、大きな家に住みたい、贅沢をしたいといった欲望や、うまいものを食べたい、きれいな女の人・イケメンと遊びたいといった快楽を退け、力や金に束縛されない自由で簡素な自給自足の生活を実践する人たちのことを言うんだな」と講釈を始めた。
わが輩は、
「なんとなく、わが輩の生活信条に近い考え方だな」と感じながら、先を促した。
「つまりだな、世俗的な欲望や快楽を退け、世俗的な習慣や形式を軽蔑し、権力に束縛されぬ自由を求めた生き方を唱えた哲学者たちのことをいうわけだ。この人たちは、自分でも樽の中で生活し、浮浪者のような質素きわまりない生活をしていた。ある口の悪い同時代の哲学者は、その生活をまるで犬のような生活をしていると揶揄した。そこでのちに、犬儒派とも呼ばれるようになったんだぞ」
わが輩は、これを聞いて、耳を側立てた。
「犬のような生活は、質素の生活の見本なんだな。なんだか自信が湧いてくるな。自足自制の、環境にやさしい、人にも犬にもやさしい、誰にもストレスを与えない、誰も傷つけない、何にも束縛されない、自由で質素な生き方なのか」と自画自賛したくなった。
「ここで、犬のような生活と言ったのは何も犬の生き方を誉めているのではないぞ。犬のように汚らしい生活と言ってさげすんだんだぞ」とのたまう。
わが輩は、それでも、こんな故事があることを思い出した。それは、かの有名なアレキサンダー大王が、樽の中に住んでいるというディオゲネスという風変わりな哲学者の話を聞いて、会って話を聞いてみたいと宮殿に招いたが断られてしまった。そこで大王はこの男の樽の前まで自ら出向いた。ディオゲネスは樽の中で気持ちよさそうに日なたぼっこをしていた。大王は、何かして欲しいことがあれば遠慮なく申すがよいと声をかけた。ディオゲネスは、
「そこをのいて下さい。立っていられると日陰になって困る」と言ったという。大王に頼めば名声や利欲はおもいのままであったろうに、何と無欲なことだといたく感心したことを思い出していた。わが輩の記憶に鮮明に残っていると言うことは、ディオゲネスの生き方に共鳴したからだろうな。わが輩にとって一番は、心身を緩ませてくれる日の光だからな。こんなこと考えているうちに、意識がしだいに遠くなっていった。

「たのしみは 昼寝せしまに 庭ぬらし ふりたる雨を さめて知る時」(橘曙覧)

徒然随想

昼寝と樽の中