徒然随想

−生きがい−
   階段をどたどたと下りてきた男あるじは、某新聞の国民意識調査の記事をみながら、
「生きがい、ふーん、3パーセントと20パーセントか」
なんぞとぶつぶつ言っている。吾輩も、今朝は散歩もすんでいるので、何のことだろうと聞き耳を立てる。3パーセントと20パーセントという数字は、生きがいを全く感じていない人とあまり感じていない人の全体に対する割合らしい。
  そうすると、生きがいを感じている人は、67パーセントになるはずだ。吾輩もこの程度の算数は覚えている。
「ふーん、23パーセントか、おおよそ4人に1人は、生きがいを感じていないんだな」
と考える。
  吾輩なんぞ、朝に夕に散歩をし、その後にこの家の女あるじと娘に見守られて食事がとれれば、
「今日も良い一日だった。生きていて幸せだ。生きているかいがある」と感じる。
  でも、このあたりまえのことを感じられない人がいるなんて、つらいだろうなと思う。我が犬族は、一日一日が快適に過ごせれば言うことはない。それ以上の望みはもたないから気楽だ。
  あてがい扶持をうけているわれら犬族とは違って、人間には、生活に苦しい人、病に罹っている人、身近な人を亡くしたり、病人を抱えたりしている人、理不尽な社会の仕打ちに怒ったり、悲しんだりしている人などがいると聞いている。こんな人たちは、いま、生きがいをと問われても肯定的には答えられないだろうな。
  定年退職し、柄にもなく、いや遅きに失した問いを自ら問うているらしい男あるじに
「生きがいとは何ざんすか」
と尋ねてみると、すぐに応答がある。これも専門のうちらしいが、その暮らしぶりを見ていると、とうてい生き生きと生きているとは言えないようだ。
「生きがいとは、何を生きがいとするかと言う問題と、その生きがいが達成されたときに生じる快感とからなる」
と、またまた講義調ではじまった。
「生きがいの対象とは、ひとつは人生での夢、まあ目標のことだな。ふたつめは世のため人のため役に立つこと、三つ目は趣味やスポーツなどに努力し、できなかったことができるようになることである。この三つのうちのすくなくとも一つがあれば、それが生きがいとなるんだな」
  吾輩は、なるほどと素直に頷く。吾輩は、さしずめ、三つ目を生きがいの対象としているんだなと思う。なせなら、散歩では、日々、新たな臭いを発見し、これはどんな種類の犬でオスかメスかと推理に夢中となり、臭いの後を追跡して我が推理を実証しようと努力する。もっとも、いつも男あるじから横やりが入り、最後まで臭い追跡ができたことがないのは不満だ。
  こんなふうに一日一日を過ごせるのは、きっと、心身共に健康だからだろうなと、この点は吾輩の健康に気を遣う女あるじに感謝する。すると、男あるじは、吾輩の顔つきを察して、すかざす
「おぬしは甘いな。おまえの健康を気遣うのは、病気でもされたら健康保険がきかないので、治療代が目の玉が飛び出るくらいに高額になるからだぞ」
と人間側の裏事情を漏らした。やれやら、人間の世界はせちがらいな!
吾輩は、小さな幸せを生きがいとしたいものだ。

「なつかしき冬の朝かな。
 湯をのめば、
 湯気(ゆげ)がやはらかに、顔にかかれり」(啄木)