吾輩はパキスタンの少女マララの話を聞いてから、いくつかの疑問にとらわれた。まず、彼女は何故に殺される危険を避けるために主張をやめようとしなかったのだろうか。1冊の本、1本のペンが銃より強い力を持つことをどうして確信するようになったのか、そして最後に21世紀の世の中でかくも非情な運命にある少女を宗教の名の下にその命を奪おうとする人たちがいるのか。吾輩は、男あるじには答えられない問だとは思うものの、その意見を聞いてみたいものだと、散歩にあらわれるのを待ちかねていた。
 陽射しも長くなってきたので、影が大分長くなる頃にようやく、男あるじはわが庵にお出ましになった。わが顔をしげしげと見やると、吾が問を察したと見えて、そっぽを向いた。案の定、答えられないのだ。それはそうだ、きっと本人にも分からないものかも知れない。吾輩は、いくぶん釈然としないまま、散歩に付き合うことにした。そこへ、女あるじも散歩に同道するべくお出ましになった。そして、女あるじは、
「あのマララの本は興味深く読めたわ。それにして中世ではあるまいに、まだ野蛮なことをする人々がいるのね。この日本に暮らしていると想像も付かないわ。人間の心の安寧にためにつくりだした宗教が逆に人間の生活を破壊するとはどういうことなんだろうね」としゃべり出した。男あるじも、
「まったくだな。宗教は薬にも毒にもなる強い力を持つ。哲学者マルクスは宗教はアヘンだと喝破しているぞ。その意味は宗教は人間にとって救いとなるが、一方、あきらめを生むという意味だった。アヘンに喩えたのは、アヘンはもちろん毒だが、精製すれば鎮痛薬のモルヒネともなるからな」と応じた。女あるじは、
「それにしてもマララはどうしてあんなに強くなれたのでしょうね。命を狙われているのに、女子にも学校が必要と訴えていた。憂国の志士といった面強く感じたわ。きっと一粒の麦の教えを実践しているのだわ。たとえ犠牲がでても多くの豊かな実りがあることでしょうね」と続けた。 
 吾輩も、その点が肝心要だと首を上下し、尻尾を大きく振って賛意を示した。男あるじも続けて、

「女は子どもを産み、そして育てる。女が無教育で無教養だと立派な子どもを育てることができない。女子から教育の機会を奪うことは国を豊にすることに反している。だから、すべての女子には学校が必要なのだ。学校教育を受けることは人間の基本的な権利なのだ。マララはこんな風に考えて行動しているようだね」
「日本では不登校が問題になっているじゃないの。学校に通いたくても、戦争、貧窮、テロ、そして学校そのものが存在しないなどで学校に行けない子ども達が世界にはまだまだ多いわ。不登校も、学校に行きたいのに行けないという意味では気の毒な子ども達だけれども、それは個人的な理由だわ。テロや貧窮のために行けないのは社会に原因があり、もっと気の毒だわ」とつぶやいた。
 吾輩は、学校がそんなに大事なところとは思わない。わが輩イヌたちは日々の生活の中で大切なことを学んでいる。自学自習といえる。でも、教えてくれる先生がいるならば、系統的に、大局的に知識を伝えてくれるわけだ。人間は、歴史や科学、文学、音楽、芸術など膨大な人類の遺産を吸収しなければならないらしい。日々の暮らしの知識や知恵では立ちゆかない。だから、マララが到達した結論である1冊の本、1本のペン、そして学校、教師が必要なのだな。そうすれば深く物事を考えられるし、新しい世の中を作ることができるわけだ。もっとも学歴が出世の手段と化すと憤懣ものだな。

「白梅や一輪咲きし凛として」 敬鬼

徒然随想

- 1冊の本、1本のペン 続-