徒然随想

-匂いと色
  わが輩には不思議なことがある。わが輩は匂い(臭い)に敏感だが、男あるじは色が見えるらしい。金木犀が咲けば、それなりに鼻をびくつかせて匂いの元を探る。でも、そこはかとなく、どこからともなく匂ってくるものは頭を精一杯にあげて鼻をくんくんとならして匂いを取り込もうとするが、どうも匂いの源を見つけるのは難しい。でも、ご近所のハッピーちゃんの香しい匂いならばすぐにその場所がわかる。
  男あるじには、この香しさがとんとわからないと見えて、
「そんなおしっこの匂いなんぞ嗅ぐんじゃないぞ、ましてやうまそうに舐めるとはなんとあさましい」と喚いて、強くリードを引っ張る。
 「まったく、人間にはこの香しさが感覚できなんてどういう生き物なのだ」とフィーフィーンとつぶやく。わが輩は、
 「これこそ究極のコミュニケーションの断絶だ」と気がついた。散歩につきあいながら、男あるじの行動をそれとなく観察していると、人間どもの視る能力はやはり優れているようだ。とくに、人間どもには「色」とか「カラー」とか呼んでいるものがわかるようだ。よくよく、観察していると、草花を見るとき、その匂いを嗅ぐよりは花に注目し、とくに色が鮮やかとか、しぶいとか話しているようだ。わが輩には、どれも黄みがかったくすんだ青色にしか見えないのだが。
  わが輩がこんなことを考えていることを鋭く察知した男あるじは、
「そうなんだ。人間は視覚に優れている。お前たちイヌは嗅覚に優れている。これは、自然の造物主が、人間には広く世界をひとわたりで知ることができるようにと視覚能力高め、イヌたちには自分たちの仲間が近くにいるかどうかを、仲間が通り過ぎた後でもその存在をしらせるために嗅覚能力を高めたのだよ。人間には色を見る能力がとくに授けられた。この世には多くのもの、樹木、花、昆虫、鳥、魚、そして岩や石、山々が存在し、それらは見事なまでに色をもっている。太陽は七色の光をこれらのものに注いで鮮やかな色を反射している。難しく言うと波長となって広がっている。人間は、優れた眼を授けられたことによって、この波長を捉えて色として感じることができる。赤いステーキはますますおいしそうに見えるので食欲もわく」と説く。そして続けて、「でも、人間もすべての色を見ているわけではない。390nm(赤)から750nm(紫)の間のわずかな波長帯を見ているだけなんだ。赤より外の光である赤外線や紫より外に光りである紫外線は見えない。ミツバチは紫外線を見ているらしい。どんな色に見えるか知りたいものだね。まとめると、造物主から授けられた知覚能力に応じた生活を人間を含めてそれぞれの種はしてゆく他はないと言うことだ」とのたまう。
「ふーん、それじゃなんだい、わが輩たちイヌは狭い世界の中だけで暮らしていけってことかい。なんにも知らないくせに偉そうにいうもんだ。われわれが、優れた嗅覚にもとづいてわれわれの生活圏を知り、秩序付け、そして楽しんでいるかわからないだろうな。毎夕の散歩で嗅覚を通して新たな発見、たとえばご近所にあらたなライバルが出現したらしいとか、それは強い匂いを発するのでまだ若いらしいとか、高齢の尊敬する先輩の匂いがだんだん弱くなっているとか、があるんだぞ」と吠えた。男あるじは、一瞬、何を吠えてるんだといった顔を向けたが、何も気がつくことなくリードを引っ張った。

「萩散りぬ祭も過ぬ立仏」 一茶