夏真っ盛りだ。わが輩も毛皮を脱ぐことができないので、暑くてたまらない。日中は縁の下でも風が通らないので、やむなくフィーフィーンと声を立てると、この家の女あるじが出てきて、わが輩を室内のエアコンの効いている部屋に入れてくれるので大助かりだ。なんでも、今夏は節電、節電で人間世界も大変そうだが、でも背に腹は代えられないな。わが輩達にも熱中症とかがあるそうで、そう若くないので気をつけなければな。そんな、こんなを思っていたら、気持ちよくなってきてうとうとした。そこへ、男あるじが、2階から上半身裸で降りてきて、しきりにタオルで汗をぬぐいながら、
「プールで泳ぎたいものだな。プールにはかわいい子もいるので目の保養にもなる。海水浴も若返りのもとだな。真っ赤な太陽、紺碧の空、広い海原はすべてを忘れさせ、一時の間、齢を忘れさせてくれるだろうな」とのたまう。
 わが輩は、「どうでしょうか、わが輩と海に繰り出すってのは」と、この時とばかり男あるじをけしかけてみる。わが輩も広い砂浜をかけまわり、疲れたら緑陰で昼寝をむさぼるのは悪くはない。もっとも海水を浴びるのはご免被りたい。なにせ、毛皮を着ているので塩水がねばねばして気持ちが悪いったらない。
 男あるじは、「まったくわかっていないな。海水浴に行きたし、されど健康が許さじだよ」と嘆いた。なんでも、この春に入院し手術とやらを受けたらしいのだ。それはお気の毒と目遣いで示した。そこへ、女あるじが出てきて、
「お父さん、プールはまだ無理でしょう。ましてや、海水浴なんて絶対駄目ですよ。もう、自分の齢を考えてください。人間は、あの加山雄三のようにいつまでも、若大将の気分をもって、青春の頃と変わりはないという幻想をもっているものですって。でも、賢い人は、それなりに自分を顧みて、現在の衰えた心身を受け入れていくものだそうよ。心が肥大化した人間は、自分の肉体の衰えには気づきにくいらしいわ。ましてや、女性への関心はあっても、身体がフォローしてくれないのだから、恥をかかないように、気をつけてね」と諭した。
 男あるじは、「寂しいことをいうな。女性への関心を含めて、心が衰えず、青春状態にあると思っているので、生き生きとしていられるのだぞ。もっとも、心と体とが乖離しすぎると、周りの状況に目が届かず、欲望のままに破廉恥な行動を起こしてしまうこともある。でも、心配するな、こうみえても、少しずつ悟りの入り口くらいには辿り着いている。あとは、皆が後押しをしてくれれば、その境地に入れるのだ。しかし、世の中には煩悩を刺激するものはあっても、それをさましてくれるものはない。とくに、夏は剣呑だ。あちこちに、煩悩を刺激する刺激に満ちている」と嘆くのか、あるいはうらやむのか、ぶつぶつとつぶやく。
 わが輩からすれば、欲望のまま、自然のままでよいのだと思う。いとしのリリーちゃんの匂いがすれば、自分の年かさなど考えずに、うっとりとする。他のイヌたちも、歳も考えずになんてはしたないなんぞと非難して吠えたりしない。もっとも、横取りには来るやつはあるな。煩悩だって、そのうちに枯れてくる。それに従えばよいのだ。もっとも、ある程度馬齢を重ねたら、『己の欲するところにしたがってその矩を越えず』といった、老賢人の心境でいたいものだ。

「おそるべき君等の乳房の夏来る」 西東 三鬼

徒然随想

煩悩の夏