徒然随想

-十五夜

  今月19日は十五夜だった。わが輩も庭のいつもの縁の下から空をみあげたらまん丸なお月さんがこうこうと輝いていたので感動した。ふと、上のベランダから声がするので見上げると、珍しいことにわが男あるじと女あるじが、声高に話しているではないか。しかもだ、月見酒としゃれ込んでいた。どういう風の吹き回しだろうか。ベランダには布団を干すときにしかあらわれない女あるじまでお出ましとは、さすがのわが輩もあんぐりと口をあけたまましばらく、月とあるじ達を交互に見やった。
 わが輩の気配に気づいたか、男あるじが下を見て、
「なんだ、まだ寝ていないのか。そうだな、これだけ見事な満月が出ているので、寝るのはもったいないな。あれほど大きく輝くと月を手にとってみたくなるだろうな。そういえば、一茶の『名月をとってくれろと泣く子かな』というユーモラスな句があったな。きっと、幼子が起きてきてまん丸の見事な月が夜空に浮かんでいるのを見て、親父である一茶に手に取ってくれんかとねだったのだろう。いかに一茶だとてこればかりは応えられない。そこで頓知を働かせて、たらいに水を張ってそれに映る月を掬ったのだろうか」と一杯機嫌で話し出した。
  女あるじも、「『名月を釘の穴から見る子かな』という句もあったわね。たしか、これも一茶でしょう。幼子が板戸の釘穴から名月を覗き、大きく見えるのでびっくりする光景が想像され、微笑ましいわ。紙を丸めて筒を作り、それを通して物を見ると、周囲の物が見えないので大きく感じられるのと同じね。レンズがはまっていないけれども、一種の簡便な望遠鏡といって言いのじゃない」と口を挟んだ。
  わが輩は、そんなものかともう一度片眼で満月をしげしげと見たが、大きさは変わらなかった。わが輩たちイヌ族は眼が利かないのでこれは仕方がないところだ。鼻ならば人間族には負けないのだが。こんなことをつらつらと思っていたら、月見酒に酔っぱらった男あるじが、濁声で、「月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」と詠じだした。そして、
「これは良い和歌だな。古今集に載っている大江千里という平安前期の学者で歌人が詠んだものだ。小倉百人一首にもある。この澄みきった空にかかる月を眺めていると、いろいろ心が乱れて、物悲しさに包まれますね。こんな悲しさを感じているのは私だけではなく、この月を見る人は皆、もの悲しさを感じているのではないでしょうか、といった意味だな」と解説した。これに呼応したように、女あるじも、ほろ酔い加減で、
「ほんとうにそうだわね。うまいこと詠ったものだわ。たしかに、名月を見て踊り出したくなる人はいないでしょうね。これだけ清らかな月の下では気持ちも落ち着き、静まるように思えるわ。月の青さがもたらす効果なんでしょうかね。この世のあわれ、無常、幽玄といった言葉の方が、熱情、豪華といった言葉より月夜にはふさわしいのかもしれないわね」とつぶやいているようだ。男あるじも、これに応えて、
「そうだ、芭蕉にも『名月や池をめぐりて夜もすがら』という句がある。これも空にある月と池に映った月を交互に見やりながら、あまりにも幽玄な趣なので寝るのも惜しく一晩中池を廻ってしまったわいといった意味だな。名月は人をしてものを思わせる力があるようだ」と結び、酒を口に含んだようだ。
  わが輩も酒という代物を飲んでみたいものじゃな。きっと良い気分にさせてくれるのもののようだ。

「名月や 口も滑らか 夫婦酒」 敬鬼