季節は中秋から晩秋へといつのまにか移り変わってきたようだ。わが輩も秋日和の午睡をまどろんでいるときに、一陣の風が縁の下を吹き抜け、身体がびくっと反応し、まどろみを妨げられるようになった。街路樹のプラタナスも、その一陣の風で一枚また一枚と葉を落としていく。この樹木の葉っぱは大きいのでかさっと音がして落ちる。わが輩も寄る年波なのか、秋が深まっていくのにはひとしお感慨がある。散歩の途中、ときどき足を踏み外したり、側溝に落ちそうになるゆえなのだろう、来年の秋を迎えられるか心許ないこともある。まどろみながら、こんな事をとつおいつ考えていたら、女あるじが珍しく庭に出てきた。何ですかと眼で尋ねたら、何のことはない干し物を取り込みに出てきたのだった。そのついでにわが輩の頭から背中を撫で撫でし、どうかお願いだから長生きしてねとつぶやいた。もう幾度となく聞いているので、まさに耳にタコができるといったところだが、わが輩にとってはこのつぶやきを聞くたびにわが老いを思い出させられるので、心境は穏やかではない。女あるじは、「今日はときどき肌寒い風がふくわね。クウちゃん、寒くはない。毛布をもう一枚追加してあげるね。もっともっと長生きしてね。クウちゃんがいなくなったら寂しいわ。もう、私も年取ったので、クウちゃんの後釜になるイヌは飼えないからね」とのたもうた。
  わが輩としてはますます心境穏やかではないが、これも当てがい扶持の身の上なので、眼と尾っぽで長生きすることに相務めますので、と応えておいた。女あるじは、自分の言葉がわが輩をいかに傷つけたかには無頓着に、
「そういえば、古今集にもこんな歌があったわね。『秋きぬと  目にはさやかに  見えねども  風の音にぞ  おどろかれぬる』。季節は、きっと、風から変わるのだわ。風の温度、風の強さ、そして風が吹いてくる方向が変わるのだわ。眼に見える変化というのは、季節が進まないと気がつかないものなのよ。樹の葉が色づく、葉が落ちるのは、秋風が吹いてから一定の時をおいて始めるのだわ。クウちゃんもそう感じているでしょう。」と賛同を求めてきた。わが輩も、これには異論はない。縁の下何ぞで午睡を楽しんでいると、風には敏感になる。冬は北風で肌いや毛の肌を刺すように冷たいが、春になると心地よい風が毛の肌を撫でていく」と続けた。そこへ、散歩に連れ出すために男あるじが出てきて、「なになに、秋の訪れはまず風からってか。そうだな、たしかに、陽射しはまだ暑くさえ感じられるが、風は心地よいな。しかし、秋の風はどこか侘びしさもある。一茶は『うら口は小ばやく暮て秋の風』、また『泣く者をつれて行とや秋の風』、またまた『日の暮やひとの皃より秋の風』と詠んでいる。最初の句では、秋風は日暮れとともに吹き渡る。秋の日はつるべ落としといわれるように、日がかげってきたなと感じたら、すぐに周りは薄暗くなっていく。表口は南に面しているので明るくても、裏口は北側なのでこばやく暮れ、そこに一陣の秋の風が吹いてきた。暮れかけてきたので戸締まりを早めようといった心境だな。次の句では、秋風は泣く子を連れて行くと驚かすのに十分な怖さもあると詠み、また最後の句では、地を這うような秋風は遊んでいて家路につく子どもの足よりも速いなとその情景を詠んでいる」と解説した。
  わが輩は、一茶という人は身近な生活情景をよく見て俳句に詠んでいる人だなと感心した。しかも、その表現は洒脱だ。俳句のもつおかしみがそこにはある。泣く子も連れて行く秋風なんてひとをにやっとさせる言い方だ。わが輩も一句ものにしたいところだが、男あるじがリードを引っ張り始めたので、やむなくこの思考回路を中断させられたのは残念。

「遊ぶ子に 家路をさとす 秋の風」 敬鬼

徒然随想

-風の音にぞおどろかれぬる