徒然随想

- 柿食えば

  2日ほど続けて雨が降った後、さわやかな秋晴れが広がった。今年は10月の半ばまで残暑が残ったので、ようやく秋が到来したようだ。立冬も既に過ぎたので、直に木枯らしの吹く季節になりそうだ。今年は秋が短いかも知れない。わが輩は、縁の下のわが庵に寝転びながら、小春日和の陽射しを浴びてうとうとしていたら、そこに男あるじが柿を囓りながらやってきた。「秋の果物と言えば、柿だな。もちろんリンゴやら梨やらあるが、柿には独特の味がある。甘くもなく酸っぱくもなく、それでいて囓るとほのかに秋の味がする。干し柿も趣があるが、やっぱりほどよく熟れた柿は美味だな」とつぶやきだした。
  わが輩は、パンやご飯は食するが果物は囓りたいとも思わない。近所のハッピーちゃんはレタスでも食べてしまうと聞いたが、わが輩にはまったく理解できない所業だ。果物もそうだ。この家の者は、夏は西瓜を、秋はリンゴ、梨、柿をせっせと囓るが、わが輩から言わせれば、これではまるでお猿さんに他ならない所業だ。犬猿の仲ということわざがあるが、イヌはサルのすることは決して真似ない。サルは、樹上の木の実や果物をうまそうに食ってみせるが、地上のわれらにはお裾分けさえしない。それどころか、さるかに合戦にあるようにわれらをめがけてぶつけるようだ。これを聞きつけた男あるじは、
「なるほど、犬猿の仲となったのは果物のせいだったのか。イヌにはイヌのトラウマがあるようだな。柿は実だけではなく、その葉の色づきも秋にふさわしいものだ。紅葉する樹木には、もみじ、いちょう、けやき、ハナミズキ、桜、それにメタセコイヤなどがあるが、風情があるのは柿の木の紅葉だな。柿の木は農家の庭などに単独で植えられていることが多いが、その葉が赤みがかった橙色に色づくと一段と趣が増す。もみじのような赤ではなく、いちょうのような黄色でもない。まさに柿色だな。所々に虫が食って黒くなっている葉もあるが、それはそれで命の営みを感じさせる。さらに趣を高めるのは取り残して置いた柿が一段と熟れて柿色もあざやかに輝いている光景だ。まさに日本の秋を象徴しているようだ。そういえば漱石の俳句にも『柿一つ枝に残りて烏哉』がある。山里の一本の柿の木に1個だけ柿が残っていて、それをカラスが食わんとしている。冬も間近な里の風景をこの句からはイメージできるというものだ」と小声でしゃべった。
 わが輩には色覚がないので、なんとも答えかねていると、
「そうかそうか、おまえには色が見えなかったんだな。色が見えないとは残念だな。この世は光に満ちていて、しかも光には七色もの色があるのだぞ。色のない世界だと、秋の紅葉も楽しめないわけだ。『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』いう子規の俳句も、柿の色、秋の夕暮れ、そしてくすんだ古寺がイメージされ、名句と言われるが、この俳句にも秋の夕暮れの色が見事に配色されているといってもよいな。地上の寺は黒、空は夕焼け、そして手に持つ柿が夕日を反射して幾分くすんだ柿色に輝いているというわけだ。夕方には、プルキニエ現象と言ってすべての色が青や紫がかって見える。これは視感度曲線が赤ではなく紫の方へ移動するからなんだ。昼間は赤が鮮やかに、夕方は青や紫がきれいに見えるのもそのせいだな。」とうんちくを傾けだした。
  わが輩は、他に聞いてくれる人ととて無い男あるじのために、我慢して聞いてやっているが、そろそろそれも限界だ。いつしか小春日和の暖かさにまどろんでしまった。

「柿の葉や 風に誘われ 色づけり」 敬鬼