梅雨に入り、じめじめしてきた。最近の梅雨はしとしとぴっちゃんといった降り方はしないようだ。まるでにわか雨のように、あるいは小さな嵐のようにバシャバシャと降る。これも温暖化なのか。これでは、雨も風情、心と体を休めるために気持ちよく昼寝という気分にもならない。
  わが輩は、風と雷が大嫌いだ。なにせ、恐ろしげな音を立てて正体不明のものが鼓膜を襲う。自然と身震いがするので、フィーンフィーンと泣いて家の中に入りたいことを知らせる。でも、こういうときに限って、家人にはわが輩の声が聞こえないようだ。しかたなく、吠えるとようやく、玄関に入れる。やれやれといったところか。  一難去ってまた一難。この家の男あるじが暇をもてあましたのか、自分の部屋から出てきてわが輩をからかう。つとめて眼を合わせないようにするが、相手も無視されたとなると人間の沽券に関わるとでも感じるのか、息を吹きかけたり、四股を踏むマネをしたりでわが輩の気をひこうとする。仕方がないのでしっぽを振って応えてやると満足げにぶつぶつとつぶやく。
「遊んでやると嬉しいらしいな。こんなにしっぽを振っているぞ。」
 わが輩は、人間どものすることの多くが理解できない。そのようなことのひとつに、「からかい」がある。まるで、自然界の嵐のように、ときどきちょっと吹き荒れる。人間どもは、退屈になると、他人に対して冗談を言ったりいたずらをしたりして楽しんでいるようだ。相手がそれで困ったり、あるいは怒ったりしても、それさえも楽しんでいるからたちが悪い。
  わが輩たち犬族は、こんなことはしない。わが輩の意中の恋犬ハッピーちゃんをからかうなんてことはしない。わが輩の意を伝えるべく、真剣に吠える。でも、わが意が伝わることはない。わが輩の真剣さに恐れをなすのか、飼い主の背後に隠れてしまう。
わが輩のこんな空想を察したのか、男あるじは、
「そうだな、からかいというのは高等な精神作用なんだ。だからといって、いまはやりのいじめとは全然ちがうぞ」
  わが輩は、いったいどこが違うのだ、どちらも相手を困らせて楽しむことにかわりはないんじゃないかととけげんそうに見上げると、男あるじは、
「いじめは相手を憎らしく感じ攻撃するだろう。でも、からかいは相手に敵意をもっているのではなく、反対にかわいいと感じていて、ただ、そのかわいさの表し方が冗談だったり、いたずらだったりする。いたずらといっても、相手に被害を与えてしまうようなたちの悪いものではなく、わるふざけをすることだな」と応える。
「なるほど」とわが輩も、相槌を打つが、犬族にはこんな裏面的な行動の仕方はなく、いつも真剣なので、本当のところは分からない。
「こんなことしてどんな御利益があるんだろう」とたたみかけると、
「まあ、おまえにはわからないだろうな。これは高等な精神作用のなせるわざだからな。昔からこんなからかい歌があっただろう」と、子どもの頃をなつかしむように次のような歌を歌い出した。

「泣き虫 毛虫 ・・・
ばーか、かーば、チンドン屋 おまえのかあさんでーべそ ・・・
でーぶ、でーぶ、百貫でーぶ・・・・」


徒然随想

からかい