男あるじが夕方、散歩のために庭に出てきて、
「俳句には『かるみ』が大事だと言われているようだ。芭蕉が俳句の世界に見いだし、これを満たせば俳句は芸術の世界にまで高められる」とのたもうた。
 吾輩は、きっとこれは俳句の本何ぞを読んでの受け売りだろうとおもった。しかし、そんなことには関心が無いので無視しすれと、男あるじを怒らせ、散歩に行けなくなるので、さも関心があるように「それは何なんですか」と眼で問うた。
「小西甚一氏の『俳句の世界』という著書によれば、かるみとは対象を邪心なく無邪気に捉え平易に表現したもので、そこに新しい意味、ものの真実や宇宙の深奥をそれとなく暗示する創作態度を言う。たとえば、『木の下に汁も膾も桜かな』という芭蕉の句がある。これは、見ると桜の木の下で汁や膾を持参して花見をしているという意味だ。花見時にはよく見られる光景を詠んでいる。この句は、そんな良くある光景のなかに人間の変わらない営みをみつけ、それを嘆美したものだという」 吾輩はこれはなんとなく理解できた。毎日をまるで昨日のコピーのように生きている吾輩には、そんな中にも新しい発見があることに気がついている。いつもの散歩コースで出会う元彼女のハッピーちゃんは御年9歳になるのに、いつまでも恥ずかしそうにうつむきながらそれでも横目で関心を持って吾輩を見ているとか、恋敵の柴犬のジローは吾輩にいつもくってかかり歯をむき出すが、そのなかにも近頃はご近所に住むもの同士の親しみの兆しが見えるとかを、新たに見つけることができているからだ。きっと芭蕉宗匠ならば、これを俳句に的確にかるみをもって表現できるのになと、男あるじを見やると、
「うーん、そんな平凡なことを俳句に詠むのは難しいな。芭蕉の俳句に『よくみれば薺はなさく垣根かな』がある。これもぺんぺん草であるナズナの花が垣根に咲いているという意味で、一見すると何の変哲もない凡々たる俳句に感じる。しかし、先の小西氏はこの平凡な光景の中に芭蕉はいのちの確かな営みを見て感動し、俳句に詠んだと解説しているぞ。『山路来てなにやらゆかし菫草』、『道の辺の木槿は馬に食はれけり』も同じくおもしろみはないが、かるみがあるという」と男あるじは解説した。
 そこへ女あるじが洗濯ものを取り入れに来て、
「そうよ、俳句は一度聞いたらすらすらと声に出して言えるものが良い句なのよ。『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』も一度聞くと、平明で調子が良いので覚えてしまうわ。『秋深き隣は何をする人ぞ』、『我と来て遊べや親のない雀』、『朝顔につるべとられてもらい水』、『梅一輪一輪ほどのあたたかさ』、これらはみんな平易で調子がよくてしかも覚えやすい名句だわ」と知る限りの俳句を暗唱して、応じた。
 吾輩は、俳句の真髄はよくわからないが、しかし語呂の悪いものよりは平板ななかにもくすりとさせるものが含まれている方が聞いていても楽しいと思った。これが諧謔というものなのだろう。諧謔なんて難しい言い方をしなくてもユーモアと言った方が的確かも知れないな。
「その通り。なかなかするどいな。諧謔精神が俳句には大切なことだ。これは川柳とは異なる。川柳は世の中の出来事を皮肉り、それを俳句と同じく17文字に表す。『これ小判たった一晩ゐてくれろ』、『役人の子はにぎにぎをよく覚え』が川柳だ。ここには皮肉からくるおかしみがあるが、芭蕉宗匠がいうようなかるみはない」と結んだ。
 吾輩は、男あるじの次の一句を期待して待ったが、ついに聞けず、リードを引っ張られていつもの散歩に出かけた。日常の中になにか今日も新しい発見があるとよいのだが、しかしこれは大変難しいことだな。

『今日もある路傍の石のイヌフグリ』 敬鬼

徒然随想

- 俳句のかるみ