朝の散歩に出かけるとき奇妙な生き物を見た。鼻を近づけて臭いを嗅いでみたところ、いくぶん生臭い臭いがした。男あるじを見やると、
「ほほう、カタツムリだな。雨模様の天気のときにどこやらから這い出してくる」と言いながら、手で摘んだ。その途端、今まで見えていた角や頭を殻の中に引っ込めてしまった。奇妙な動物だ。吾輩は、男あるじの手に摘まれたカタツムリに鼻を近づけたが、出てくる気配はなかった。男あるじは、朝の散歩のコースである公園を歩きながら、
「これはだな、陸貝といって貝の仲間だな。まあ、陸に上がった貝といったところだ。ナメクジも同類だ。ナメクジは知っているだろう。最近は畑なんかにも群れを成して生息し、ジャガイモの表面を這いずり回って食ってしまう。これは殻が退化して、ぬるぬるした軟体部のみに進化したものだ」とうんちくを傾けだした。
 吾輩は、男あるじが石の上に置いたカタツムリをじっと観察していたら、なんとなんと、最初に角が出て、頭が出て、胴体が伸びてきたのには驚いた。しかもぬるぬると動き出せたではないか。そこで、前足で驚かせてみようと軽く触れたら、あっというまに胴体、頭、角を殻の中に引っ込めてしまった。これを見ていた男あるじは、
「『でんでん虫々 かたつむり、お前の頭は どこにある。角だせ槍(やり)だせ 頭だせ。でんでん虫々かたつむり、お前の目玉は どこにある。角だせ槍だせ 目玉出せ』」と近所迷惑も考えずに濁声を張り上げて歌い出した。なんでもこれは小学唱歌というもので、かつては幼稚園児から小学校低学年の子どもがよく歌ったものだそうだ。よく聞いてみると、カタツムリのユーモラスな動きがその詩に表現されているようだ。ここがナメクジと違うところだな。ナメクジはただぬるぬると緩慢に動くだけだが、カタツムリは殻を巧みに利用して角を出したり引っ込めたりしてすばやく反応するので、見ていて飽きない。子どもが、さあ角だせとか槍だせとか囃したくなるなと吾輩は感得した。 男あるじは、「信濃の俳人小林一茶はハエ、雀の子、お馬など動物を俳句にしているが、そのなかにカタツムリの句『夕月や大肌ぬいでかたつむり』がある。きっと夕立が晴れ上がり、地面が湿っぽくなった時、ふと見るとカタツムリがまるで人が片肌脱いで夕涼みをするように、全身を伸ばして気持ちよさそうに月を見ながら草の上を歩いていることよ、といった趣だな。カタツムリは決まって雨上がりに這い出てくる。雨がよっぽど好きな生き物らしいな。現代の俳人である長谷川櫂も『木に草に雨明るしや蝸牛』と詠む。暗かった雨もあがりそうになったので、ふと見ると明るく光っているところがあり、それはカタツムリが歩いているところだった、という句趣だろうか。雨の中のなんでもない平凡な光景がカタツムリが登場することで生き生きと感ぜられるだろう。巻き貝を背負って歩くでんでん虫のおじさんの登場は、それだけでユーモラスで趣があり、なぜかにやりとさせられる」と長口舌をした。
 吾輩もカタツムリを再度しげしげと見やると、カタツムリはそっと角を出し、頭を出し、胴体をくねらせて歩き出した。角の先にはなんと眼があり、周りを見ることができるらしい。今度はちょっかいを出さずにでんでん虫のおじさんの行動を辛抱強く眺めた。それを見ていた男あるじは、
「『舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏破せてん まことに美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん』という歌もある。これは後白河法皇が編集した梁塵秘抄のなかにあるものだ。平安時代の今様、いまでいう遊び歌のようなものだが、その一節だ。平安時代の民衆もカタツムリのユーモラスな動きをみていっそう囃してみたくなったのだろう」と話し終えた。

「雨あがり角出し眼出しかたつむり」 敬鬼

- かたつむり

徒然随想