春が来るのが遅かった今年もようやく、初夏の装いを感じられるようになった。桜の花も散るとほぼ同時に新緑が芽生え、そしてもう一面の黄緑に木々が覆われている。花の盛りに葉の芽吹きが用意されているのだろうか。わが輩が朝寝と昼寝をして過ごすこの家の庭の縁先からも、桜、欅、クヌギの新緑が眼にさわやかに見える。
  そこへ、男あるじと女あるじが珍しくもそろってやってきた。「『目に青葉、山ホトトギス 初かつお』と詠じたのは蕪村だが、この句は、黄金週間の自然の生み出す樹木、山鳥そして海の幸という3要素をとりこんで詠じていて見事と言って良いな。『春なれや 名もなき山の薄霞』という句が芭蕉にある。名もない山でも春の薄衣をまとって、しかも霞が薄くたなびいたりしていると趣がある、春が来たのだなと実感したことを旅にある芭蕉が詠じたものだ。実際、夕方におまえを連れて散歩すると、わが家の周りの名も知られない山々が、はじめは木々の芽生えを映してが薄赤色の衣をまとい、それがしだいに白色がかかった薄緑色に変わり、そしてだんだんと緑色が強くなるのを見ることができる。樹木も生きているものなれば、その内部からの生命の息吹が芽生えとして噴き出てくるのだろう。いまは、生きとし生きるものがみな、『春なれや』を実感する季節だ」とのたもうた。
 それを聴いていた女あるじも
「目に映るものもさわやかだけれども、この季節のもっとも気持ち良いのは風だと思うわ。冬はもちろん、春も名のみばかりで風は冷たいわ。でも、この黄金週間に吹く風は、風薫ると言われるように、緑の香りを運んで、その匂いといい、肌への和みといい、何ともいえないほど気分がフレッシュになるんじゃない。だいたい、桜花や青葉など視覚に訴えるものから春を感じるといわれるが、嗅覚や触角に刺激されたものから春を感じる方がいっそう実感できると思うわ。風でも冬の肌を刺す木枯らし、盛夏の肌から汗を噴き出させる暑風、夏が過ぎ秋の気配を感じさせるひんやりした風などなど。クウちゃんはどう感じるの」とめずらしく長く話した。
  わが輩は、春夏秋冬、毛皮をまとっているので、肌を刺すなんてことは感じられないが、人の数千倍も敏感な鼻では風の匂いならぬ臭いを、そしてこれも鋭敏な耳で風音を感じている。春になると他のイヌのおしっこの臭いも一段と強くなるのかしらん。これはきっと、このときとばかり生きることの競演、そして性の競演のためだろう。
 男あるじも、
「人間は眼で見てものの形、色、大きさなどの特徴を知る視覚優位の動物だ。もちろん、聴覚も触覚も、はたまた嗅覚、味覚も働かせているが、しかし視覚に頼ることの方がだんぜん大きい。眼が見えなくなればどんなにか不自由かがわかるだろう。おまえたちイヌは嗅覚優位の動物だ。だから、最後は臭いを嗅いでみないと、それが好きなイヌのものかライバルのイヌのものかは確かめられない。人間でも、視覚は遠感覚と言って対象から離れたところで知ることができるものだから、ある程度客観的に対象を見ることができる。インテリジェントな感覚だ。しかし、触覚は近感覚といって対象と接しないと感じることができない。それだけ、原始的で情動的な感覚と言って良い。肌で感じることは、眼で見たものよりは強く実感できるというわけだ。眼で見たものは正しく対象を捉えることができるが、しかし対象から離れているだけに騙されてしまうこともあるというわけだ」
  なるほど、これにはわが輩も共感した。薄ぼんやりと見えるものでも、近くによって臭いさえ嗅げば、それが誰だかはすぐにわかるし、けっして騙されることもない。イヌのご先祖様は、こんなことを洞察した上で嗅覚優位な動物としてわが輩たちを育てたのだろうか。

「春なのか 肌を和ます 青い風」 敬鬼

徒然随想

-風薫る-