そろそろ、夕方だ。散歩の時間だ。朝寝と昼寝で時間を過ごしているわが輩にとって散歩は至福の時だ。この家の男あるじとつきあいの長いわが輩には、散歩に行く時間がわかるのだ。男あるじも大学を退職してからは、大体、毎日、家にいる。ときたま、非常勤とかで近くの大学に講義に出かけるようだが、それ以外は、新聞、話題の本、雑誌、論文そしてわが輩にかこつけた駄文を書いているようだ。新聞なんかはていねい、いやばかていねいに読んでいるらしい。なにせ、早朝の5時頃から配達されるのを待っていたかのように、新聞受けに取りに行く。わが輩にはなんでそんなに新聞が面白いのか見当もつかないが、男あるじはインクの匂いを嗅ぎながら、自ら入れて緑茶を喫しながら新聞の一面を、そしてなぜか三面記事を読んでいるらしい。その次は、きっとスポーツ面だろうな。男あるじは自らの暮らしをまさに晴耕雨読だなんてうそぶいているらしいが、晴耕なぞしているようにはとんとみえない。 こんなふうにして、午前が過ぎ、昼にはパンをほおばり、午後は昼のシアターとか称して、取りためたテレビ番組をみるようだ。わが輩は、とてもつきあえきれないので、さっさと昼寝をきめこむ。
  そして、夕方だ。どんなに暑くても、涼やかな風が吹いてくるのは、半田舎の良いところだ。男あるじも、一日一回の外出に張り切るようだが、きまって、
「やれやれ、またまた、おまえさんと散歩か。代わりばえしないな。飽きたな。近辺は歩き尽くしたしな。どこか、まだ踏み込んでいない散歩コースがあればよいがな。健康維持、メタボ対策も兼ねているので出かけるとするか」と、いつものように嫌みを言いながらシューズを履く。わが輩は、こんなのには慣れているので、われ関せずと無視するか、たまには両前足をあげてどんとあるじの腹をこづいてやる。
 どの散歩ルートをとるかは、男あるじの気まぐれな選択による。今日は長く歩いてからビールを楽しもうと思えば、近くの川の土手を巡るコースになるし、てっとりばやくあげてしまおうとすれば、これも近くの市民公園往復コースとなるようだ。わが輩は、どちらかと言えば、川の土手を巡るコースが好きだな。なにせ川面を渡る風は、真夏でも夕方は気持ちがよいものだ。ときどき、女あるじも同道するが、
「汗がひいていくよね。やっぱり、自然の風はクーラーの風とは違うわね。きっと、風の成分と言うより、風の吹き方、風が運ぶ匂いなんかが人間の五感を刺激するからだと思うわ」と話す。男あるじは、こんなときにも身についた稼業がしゃしゃり出て講釈を始める
「人が風を感じるとき、それはおもに触覚、そして聴覚、嗅覚、それに視覚器官を通して脳に伝達されるのだな。わかるか。脳はそれぞれの感覚領野でそれらの刺激を受けとめ、さらに高次の脳に伝える。こうして、外界の風という刺激はニューロンのネットワークの中を電気信号となって駆け巡る。最終的には、脳は外界で風が吹いていることを認知する。でも、不思議だとは思わないかい。脳内で駆け巡っているのは電気信号だけなんだよ。でも、電気信号を感じるのではなく、人間は風を感じる。いや、きっとお前も風を感じているはずだ」
 そういわれて、わが輩も不思議なことだなと思った。確かに、脳内で機能しているのは電気信号とやらなのに、どうして外の世界に風が吹いていると感じることができるのだろう。
「そうだろう、不思議だろう。脳の特定の状態を反映した外の世界についての意識現象をクオリアと学者達は呼んでいる。いわば、それは風が吹いているという意識が生じている状態をいう。日本語には適切な言葉がないので質という意味であるクオリアをあてる。この問題は、心がどのようにして生まれるかという大きな問題にもつながっているのだぞ」
 そうか、どのようにして風を感じるかということ問題は、科学の深遠なテーマなのだな。もっとも、そんな深遠な問題を解決できなくても、わが輩は風を感じることはできるし、おいしいものはおいしく感ぜられる。感覚や意識の背後にどんなしくみがあるのかはまったくのブラックボックスでも、感じることができるのはありがたいことだな。きっと、男あるじも女あるじも、冷えたビールを飲み、これぞ夏の味だと意識しているときに、その背後のしくみまで思いやってはいないだろうな。

「涼風のまがりくねって来たりけり」 一茶

徒然随想

風とクオリア