雨もよく降るが冷え込みはなくなったので、老犬である吾輩も過ごしやすくなってきた。吾輩が寝そべる地べたも暖かくしかも柔らかい。きっと、地虫も這い出しやすいだろう。匂いを嗅ぐと、土の匂いの中にそこはかとなく生き物の臭いというか、土がほぐされたときに醸し出す豊穣な匂いも混じっているようだ。
 そこへ、男あるじと女あるじがお出ましになった。そうか、もう散歩の時間か。日が高いので夕方になっていたとはとんと気づかなかったわけだ。女あるじは、こんな吾輩を見て、「そうよ、夕方の時間が長くなり日脚がのびてきているのよ。ようやく、春が巡ってきたと実感できるわね。こうやって、毎日毎夕、クウちゃんと散歩に出かけると季節が着実に回っているわね。団地の家々の庭の紅梅や白梅がいまを盛りと咲いている。でも、もうじき桜に取って代わり、春爛漫になるわよ」と話し出した。これを聞いて男あるじも、
「二十四節句では、この頃のことを啓蟄と呼ぶ。蟄という漢字はいまでは用いられない字だが、昔は蟄居閉門とか永蟄居とかに使われた。侍の処分の一つで、家の中に押し込めて誰とも会わせない処分をいった。蟄はもともとは虫が土の中でじっと隠れることをいうそうだ。啓は啓蒙などと使われるように開くという意味なので、啓蟄は虫が隠れているところから這い出すことを指すのだよ。つまり、虫も這い出るような暖かい季節になったというわけだ」となにやらうんちくを傾けだした。吾輩は、拝聴するふりをしながら女あるじを見やり、散歩を催促した。女あるじも心得たもので、散歩用のリードに付け替えると、さっさと歩き出した。男あるじは、むっとした顔をしながらも一緒に歩き、
「土のなかには、アリ、ミミズ、オケラ、そしてカナブンなどの幼虫も隠れているぞ。それらが、土の中が暖かくなり土も柔らかくなるともぞもぞと這い出してくるわけだ」としゃべり、突然に『ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ』と歌い出したのにはびっくりした。男あるじは、歌い終わると、
「これは『手のひらを太陽に』という歌だ。作詞者は、あのアンパンマンのやなせたかし、作曲は『見上げてごらん夜の星を』や『しあわせなら手をたたこう』のいずみたくだ。『ぼくらはみんな生きている、生きているから歌うんだ』という出だしなんか、歳をとるとともにいっそう共感できるものだ」としゃべると、女あるじも、
「そうよ、2番が『生きているから笑うんだ』だったかしら、そして3番は『生きているからおどるん』だ、だったわね。歌う、笑う、踊るというのは生きるものの素直な表現として自然なものだわ。クウちゃんだって、ひそかに笑ったり、踊ったりしているのよね」と話をつなげた。
 吾輩は、内心でほくそ笑んだり、嘆いたり、怒ったりするが、歌うことはない。もっとも、吠えるときにヨーデルばりに抑揚を付けることはあるが、これを歌と言えばそうかもしれない。 男あるじは、吾輩を引っ張って坂を上りながら、
「『啓蟄の蟻が早引く地虫かな』。これは高浜虚子の俳句だ。暖かくなりいち早く出てくるのはアリで、早くも地虫を捕らえて大勢で自分たちの巣の中に運んでいるぞ、まことにたくましいものだといったところだろう。いずれにしても、春は、冬の寒さを耐え忍んでいた生き物が動き回る、いのちの息吹、賛歌の季節というわけだ」と話を結んだ。

「啓蟄や蟻の列追う犬の鼻」 敬鬼

- 啓蟄

徒然随想