徒然随想

-菊次郎ごっこ
   朝から、この家の女あるじと娘が、何か論じあっているようだ。良く聞いてみると、わが輩に関係しているらしい。
 女あるじは、
「昨晩も、菊次郎ごっこをしてあったわ。よほど、寂しかったんだね」と話すと、娘は
「そういえば、家中の者が出かけると、決まって菊次郎ごっこがはじまるわ」と応じる。
菊次郎ごっこというのは、数年前のテレビドラマで、ビートたけしの子ども時代の一家をめぐって展開される面白い話であった。一家の大黒柱の菊次郎は、自分が家族から除け者にされると、ちゃぶ台をひっくり返して、うっぷんばらしをしていた。これにひっかけて、この家の者たちは、わが輩が鼻先で巧みに水トレーをひっくり返すのを「菊次郎ごっこ」と名付けたようだ。
女あるじは、
「これは不満をあらわす一種の手段なんだわ。どんなときに菊次郎ごっこをするかを見ればわかるわ。家中で仕事に出かけたり、遊びに出かけたり、2階にあがり寝てしまったりする後にきまって始まる。不満か、あるいは自分だけ除け者にされて寂しいときに起こすんだわ」と主張する。
娘は、
「そうかもしれないけれど、これは一種の遊びなんじゃないの。不満や寂しさを訴えるなら、泣いたり吠えたりすれば良いんじゃないの。わざわざ、鼻先でトレーをひっくり返し、ご丁寧に、玄関先にある靴などを一箇所に集めるのは、退屈紛れに遊んでいるとしか考えられないわ」と反論する。
そこへ、男あるじが何事かと階下に降りてきた。事情を察した男あるじは、わが輩を睨むと、
「そういうことではないんじゃないか。これは条件学習が起きただけだ。そんな高等な精神活動などでは無いと思うよ」と横から入り込んで話し出す。
「つまりだな、ある時、偶然にクウタローの鼻先がトレーに触れ、それがひっくり返ったんだな。水の入ったトレーが逆さまになるというこれまでにないことをクウタローは体験して、興味を持ち、この体験が一種のほうびのような効果をもたらした。もう一度、同じことが起きるか試したくなり、再度試みると、同じことが起きた。つまり、トレーという刺激に対する新しい習慣が形成されたというわけだ」と解説する。
 わが輩は、不満説、遊び説、条件学習説の行方がどうなるのか興味を持って耳をそば立てたところ、女あるじと娘は、
「つまらないことを言うんじゃないわ。心理学者のくせに犬の心理も分からないの。どんな行動にも、そのときの感情とか、気持ちとか、気分とか、心が関わっているのは当たり前でしょう。人間だってクウタローだって同じことだわ。条件反射は、新しい行動を獲得するしくみを言っているだけで、そのような行動をするようになった感情を考えない狭い見方だわ」と異口同音に述べた。
 わが輩も、拍手喝采を送りたい気分で、しっぽを千切れんばかりに振った。これをみた娘は、
「ほらごらん、クウタローもあんなに喜んでいるでしょう。クウタローの行動を分かるためには、クウタローの感情や気分を知らなければダメなんだよね、クウタロー」といいながら、クウタローを抱き寄せた。
わが輩は、息が詰まりそうになったが、でも安心したのか身体が弛緩するのを感じていた。男あるじは、
「それは擬人的解釈だな。行動というのは、感情とか気分とかを除いて、まず見えているものだけから解釈してみる必要がある。感情とか、気分とかは目に見えない。安易にそういうものを持ち出すと、本当のことが見えなくなる。たとえば、クウタローが電柱におしっこをしっかける。これをクウタローが電信柱を恨んでいるからだと考えると、大きな誤りだ」と小さくつぶやく。
 わが輩も、心は大事だけれども、それは目に見えないし、直接操作もできないので難しいものだと思った。確かに電柱におしっこをしっかけるのは、そこに適当な片足をあげやすいものがあるだけの話で、敵意とか恨みとか、ましてや愛着とかは関係ない。ただ、心がうわの空では何事もわからないし、何事もできないだろうなと次の格言をおもいだした。

「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味、此謂修身在正其心(礼記(大学)」
(心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食しても味わえない。おなじように、正しい事に心を集中しなければ、身を修めることはできない)