男あるじと女あるじが揃って出かけているので、吾輩は小春日和の気持ちよい陽を全身に浴びて日光浴としゃれんこんだ。夢うつつの中、吾輩はお気に入りのメグちゃんと手を手にとって、いやしっぽとしっぽを絡めてあちらの角、こちらの隅を散策しながら、時には互いの鼻をくっつけて恍惚としていたら、突然、男あるじの大声で夢を破られた。いつのまにかご帰還遊ばし、吾輩を散歩に連れ出そうと言うことらしい。おそろいでどちらまでお出かけですかとやんわりと目で問うと、女あるじが、
「今日はほんとに良い日だったわ。まさに錦秋日和といったらいいのかしら。ロープウェイから見下ろした山の紅葉は今年一番だったわ。早くても遅くてもこんなすばらしい光景はみられなかったでしょうね」といくぶん興奮しながら話した。
 吾輩には色というものが見えないので、紅葉とかましてや錦秋とかいわれても実感がないが、女あるじが久々に気分を高揚させているので、きっとすばらしい日本の秋を堪能したのだろう。男あるじも、すかさず、
「今日は思い立って遠出をして今年一番の秋を目にできて良かった。この年になると、もう何回こんな紅葉にお目にかかれるか分からないからな。おまえには見えないので説明しても仕方がないが、日本の秋の紅葉はさくらやもみじの赤、からまつやいちょうの黄とが織りなし、まさに全山が織物のように上からは見えるので壮観だ」と男あるじも珍しくハイテンポでまくし立てた。そして、
「幕末に来た外国人も日本の秋の景色を賞賛してやまなかったというぞ。これは、最近読んだ『逝きし世の面影』という本に出ていた。この著作は渡辺京二氏がまとめたもので、幕末から明治初期に来た外国人の日本についての手記をていねいに拾い、当時の日本の風俗や日本人の品性や考え方を浮き彫りにした好著だ。これを読むと、現代人が失ってしまったもので江戸時代の日本人がもっていた貧しいけれども心豊かなものが伝わってくる。その中で春の花見とともに秋の紅葉のすばらしさを伝えた手記を紹介していたな。プロシャの使節団長のオイレンウルクは、江戸近郊を馬で散策し『私の生涯で此処ほど美しい木の葉の色や秋の景色を見たことはない。全く飽かぬ眺めであった』と記したとある。もちろん、秋ばかりではなく春夏秋冬の日本の自然の美しい変化にも心動かされたようだぞ」とうんちくを傾けだしたので、吾輩は散歩の催促をすべくフィーンフィーンと鼻をならしてやった。
 女あるじが吾輩の意に気がついて、
「そろそろ、散歩に出たら。クウちゃんが催促しているわ。その間に買い物に出てくるから」と言って家の中に入った。男あるじは、まだしゃべりたそうだったが仕方なくリードを散歩用に付け替えた。そして歩きながら男あるじは
「それにしても、日本人は四季に合わせて季節を楽しむのは、昔からの嗜みらしい。俳句でも季語というものがあって、必ず一句のなかにそれを織り込むという決まりがある。季語によって起こる四季の連想が俳句では重要な役割を果たすのだ。つまり季節をあれこれ説明しなくても、季語を通して俳句が伝えんとする季節が伝わるというわけだな」と話し続けた。


「錦秋の山肌にそう綾錦かな」 敬鬼


- 錦秋-

徒然随想