徒然随想

-恋の手順−
   今朝は冬晴れで、わが輩の鼻も一段と広がり、臭いを鼻いっぱい吸い込む。なんと言うっていいのか、冷気の臭いがするなと思っていたら、突然、あのハッピーちゃんの甘酸っぱい臭いが混じってきた。吾輩の脳は急に活気づいたようだ。自分の意志とは独立に吾輩を行動に駆り立てようとする。仕方がないので臭いのする方向に駆け出そうとしたら、急激に首に衝動を感じた。驚いた男あるじが、吾輩の綱を引っ張ったのだ。そこへ、あのハッピーちゃんが姿を現した。
 「なんと、優美なやさしい姿をしているんだろう」と吾輩は力一杯にハッピーちゃんに寄ろうとしたら、何とハッピーちゃんは吾輩の剣幕に怖じ気づいたのか、後ずさりをしてそっぽを向いてしまった。ショック。吾輩は嫌われているのかな。誰にでも吾輩は好かれていると自負していたのに。とくに、人間のおばさんたちは、吾輩をみるとかわいいと頭を撫でるのに。へこみそうな気分だ。
   そんな様子を見ていた男あるじは、ハッピーちゃんの家のあるじと話をし出した。
「どうも、家のクウタロはがさつでこまる。手順というものを知らないようだ。何でも欲のままに相手に飛びつけばよいと思っているらしい。相手に言い寄るにも、愛を告白するにも、犬には犬の手順があろうに」
 これを受け、ハッピーちゃんのあるじも、
「ほんとに、ほんとに、これは犬ばかりではないですよね。人間も行動のための手順を知らないものが多すぎる。人になにか依頼するにしても、あるいは恋を告白するにもそれなりの手順が定められていたのに。これが礼儀となっていった」
我が家の男あるじも、これを受けて、
「礼儀は単なる形式ではなく、人と人との間を美しく、安らかに保つ手順として発明されたものですよ。朝の挨拶だってそうですわ。これは互いに相手に対して敵意がありませんということを示すものだったというじゃありませんか。ニホンサルの研究によれば、サルはしっぽで挨拶をしているらしいですよ。サルの中で位の高いものはしっぽを高々とかかげ、位の低いものがしっぽをまるめる。もし、両方がしっぽをかかげていれば、そこで順位確認の闘いが起きると言うことですよ」
「なるほど、サルも礼儀を発明しているのですな。きっと、サル同士がいつも順位確認の闘いをするのはくだらないことだと気がついたんでしょう」とハッピーちゃんのあるじが応じている。
 吾輩は、しかし、ハッピーちゃんの機嫌を取らなければならないので、それどころではない。ハッピーちゃんは、あるじの後ろに隠れて吾輩を見るでもなくみているようだ。どうやら、まだアタック、いやいや攻撃ではなく、手順をわきまえてアプローチしなくちゃと吾輩は考えた。
「でも、手順てどうやるんだろう。吾輩たち犬族は、人間に飼われるようになって久しい。かっては、犬族は犬同士、集団で生活していたので、恋の手順は先輩から後輩に伝えられただろうが、いまや、そんな絆は無くなってしまった。それとも、恋の手順は本能によって決められているのかな。本能ならば、生まれたときからどういうふうに行動すればよいか、その手順は脳に書き込まれているはずなのに、思い出せない。きっと、恋に駆られる力は本能なのだろうけれども、その手順は先輩から教えられるものじゃないのかな」
   吾輩は、こんな風に思案していたが、なんとなんと、気がついたら、ハッピーちゃんの臭いは消えかかっていて、ハッピーちゃんもそこにはいなかった。
「うーん。恋の手順はむずかしい。誰も教えてくれないので、自分流をみつけるしかないかな。でも、こんな時には臭いコミュニケーションは不便だな。藤村のようにはあらわせないものな」

  「吾胸の底のこゝには
言ひがたき秘密住めり         
身をあげて活ける牲とは
君ならで誰かしらまし」(落梅集)